前回のエントリ「『やりたいこと』を見つけ、それを仕事としなさい。」で述べた高次元軸での評価基準の話は、全くのオリジナルではないのでご注意いただきたい。
「成長前夜/ショーンK 2005.2」の中でショーンKが記した「人間の成長とは『やりたいこと(希望)』『やれること(能力)』『やるべきこと(責任)』のバランスを保ちながら、それぞれを頂点にする正三角形の面積を大きく広げていくプロセスだと思う」という、そのままの記述に学んだものだ。また「キャリアアンカー/エドガー・H. シャイン著 2003.6」の中でエドガーシャインが記す「自分は何が得意か? 自分は何をやりたいのか? どのよなことをやっている自分なら、意味を感じて社会の役に立っていると実感できるか?」という3つの問いからヒントを得ている。
さて本題。
妻と娘が「ゆうちゃん」と呼んで応援しているシンガーソングライターがいる。インディーズCDを買ってきては、6歳の娘が口ずさむほどに聴き込んでいる様子だ。どうやら、街頭で路上ライブを見かけて以来、すっかりファンになったようだ。
昨日の食事の時にラジカセでそのCDをかけてくれたので拝聴する。偉そうな言い方だが、正直、何か今までにない特徴を持ち揃えた印象はなく、ごく「ありきたり」なアーティストに聴き受けられた。
6歳の娘にファンになった理由を問うてみると「かわいいから」とのこと。
絶対違う。
いや、別にかわいくないだろう、ということが述べたいのではなくて、一番最初に娘の心をフックして捕らえたのは「かわいさ」ではないはずだろう。
では何なのか。(もっと整理して考える必要はあるのだが)私が言えるのは、それは「自認」ではないだろうか。
ある対象Aに対して好きなところを述べる場合、ただ思うまま感性や直感に身を任せたままでも回答することができる。この場合、質問によっては「自分がAを好きか」ということへの問いの回答を強制されることはない。
しかし、「好きなものは何か」と聞かれて、先ほどの対象Aを導き出すには、まず必ず「自分はAが好きだ」という結論を自認することが不可欠となる。
一方通行なこの2つの質疑を「可逆的」なものにするのが「自認」の意識である。
「やりたいこと」をスラスラと語るためには、そこに「これでやっていく」という一種の決意や覚悟であったり、「これが好きなのです」という外向きの宣言やアピールといった自認の要素が少なからず含まれてる。
「友人」や「知り合い」というレベルから、恋愛感情へ引き上げるための、初速としての駆動力となるのも「もしかしたら好きなのかも」という自認である。この時「好き」の理由を自分で理解することは非常に難しい。ただ何となく気になる、ただ何となく相手のことをもっと知りたい。そんな思いが内から発せられ、意識が吸い寄せられる。さらには、別段はっきりした理由なく一緒にいる中で相手の良さに気付き、好きに昇格することだってある。きっと、何かを好きになるというプロセスには、卵が先か鶏が先かという議論に陥るケースがある。
要は、始めに理由ありきの好きと、結果的に理由が後付けされる好きとが、互いに併せ含むように形作られるのではないだろうか。
自認を伴わずに趣向が存在するケースもあるように見受けられる。その例外的ケースとは「一目惚れ」である。ところが、例えば、猫顔だから好きなのだ、離れ目だから好きなのだ、アヒル口だから好きなのだ、などといった理由が存在する場合であっても「自分がアヒル口を好む理由」は、きっと掘り起こすことが難しい。実は、根源的理由は保留されたままなのだ。
非合理だが、趣向が生じた本当の理由の特定を「一時的に棚上げした」状態で前へ進まない限り、趣向は生まれえない。きっとそうだ。

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