暑苦しい響きだ。ちょー暑苦しい響きだ。鳥肌が立つほど暑苦しいフレーズじゃないか。「好きなことを見つけなさい」だとか、「やりたいことをやってみなさい」とか、こんなアドバイスをよく目にする。ある意味このフレーズは、世間で一定のポジションを得た、一種の模範回答のように捉えられている。
しかし、実際には、友人で「やりたいこと」を言えそうな人間を思い起こそうにも浮かばない、極端な例だと、娯楽以外に「好きなこと」すら回答に詰まるのが本音ではないだろうか。
決して「私には、やりたいことがあります。そのために努力しています」なんて、さらに暑苦しい声をあげるつもりもない。熟慮なくそんな言葉を発そうものなら、しばらく梅雨に打たれてみろと言いたくなる。「やりたいことが見つかりません。何から始めてみればいいでしょうか」みたいな思春期のコのような悩みを打ち明けたいわけでもない。
よくよく考えてみると、何もない状態から「やりたいこと」なんて果たして見つけることなんてできるのか?
若いうちから自分の「やりたいこと」を本質的に捉えることなんてできるわけがない。これは決して言い過ぎではないと私は思っている。無限に近い選択肢の中から、情報不足で評価基準も定かでない中で、好みに合ったものを見つけろとは、人間の能力を過信するにも程があるのではないだろうか。私たちを一体誰だと思っているのだ。
「やりたいこととは何か」
ちょっと、そんな疑問を真ん中に据えてじっくり考えてみたい。あわよくば、どうやって見つけるべきものなのかを探ってみたい。深い心のダイビングの始まりだ。
「やりたい」と表現できるものの中には、純粋に「したい(want)」の他に、実は非常に多くの要素が内在している。しかし「やりたいこととは何?」と聞かれると「したい(want)」ばかりに囚われ盲目となっていないだろうか。単純な言葉で表現してしまうと、そこに内包した多くの意味が欠落し見落としてしまう。言葉で表現できるのは、全体のごく一部でしかないのだ。
少し話が逸れるが、先日友人が面白い話を聞かせてくれた。
彼は「理想の結婚相手に巡り会うためには、一体何人の異性と知り合う必要があるのか」と問題提起したうえで、「もし、10人に1人の割合で自分の好みの容姿が存在すると仮定し、そのうえ性格が合うのは、さらに1/10と仮定する。おっと。まずそれ以前に知り合って、まず仲良くなるだけでもすげぇ確率低いんでね?…」と続く。
その場で私は「自分の好みなんて後で幾らでも変わっていくもんだわさ。どやさ、どやさ」とコメントしておいた。一瞬、「『出会い』を数値で考えるかフツー?」なんて感じなくはないが、ちょうど「好きな仕事って、はて何だろう」って漠然と思い耽っていた私には、彼の投げかけたボールがダブって見えた。「やりたい仕事は、一体どれほどの数の仕事を試してみれば見つかるのだろう」「『好き』が形作られる道のりに近道はあるのだろうか」と。
ここで、ゴールまでの道のりを大いに遠ざけているのが、言わば「『want』のみに頼ることによる制限」ではないだろうか。前述の話だと「結婚相手」を「好み」のみに縛っていることだ(決して「好み」でない異性と結婚すべきと言いたいのではない、うん、決して。)。複雑な問題を「単純モデル化」し過ぎたためにゴールを遠ざけてはいないだろうか。好きと一言で形容され集約されたとしても、本来その出発点には言葉では言い表せない様々な思いが原点にきっとある。
戻そう。「好きな仕事」でも同じことだと言える。「やりたい」と表現されるものには、「認められたいこと」「喜んでもらいたいこと」といったバリエーションの他にも、「できる(can)こと」とか「すべき(should)こと」とかも、過程が暗黙的であっても「したい」に行き着くことだってある。
「したい/したくない」という一次元軸上を行ったり来たりするだけである必要はない。例えば「したい/したくない(興味)」「できる/できない(能力)」「すべき/やらなくともよい(貢献)」「褒められる/褒められない(承認)」という4次元軸上で、例え一軸において低い値を示しても、ベクトル長さ-距離-が遠い地点は、それはやはり「やりたい」と自認できるようなことなのだ。
さすが数年に渡り悩み続けただけある。構想数年、構成2ヶ月、執筆30分という尻すぼみなエントリだが、実は書ききっていない続きがある。また次回お会いしましょう。