目標施策と抽象論

3連休は、一日目は家でダラダラ過ごして、二日目に妻は「ライブに行ってくる」と義母と二人で、泣きじゃくる娘を置いて出かけてしまった(事前に聞いていた予定ではあるのだが)。

「実家に帰らせていただきます」ではないが、雨の日に家で娘と二人で過ごすのもナンだし、娘はコナツに会いたいと言うものだから、実家に帰ることにした。

帰宅時に始発駅から電車の出発を待っている間、妻にメールを打とうとしたした際、車掌さんから「優先座席での携帯電話の使用は控えてください」と注意を受けた。仕事帰りに同様に注意を受けているのを見たことがあったのだが、すっかり忘れていた。それなのに「いやいや、車内ガラ空きだし誰か乗ってくるまではえぇやんかぃ」と思ってしまった私はタチが悪い。


携帯電話の使用は、通話による迷惑はもちろんだが、ペースメーカーなどの医療機器への悪影響を考慮して優先座席付近では使用を控えるようルール化されている。実態として付近に誰も乗客がいなかったにも関わらず、機械的に「携帯電話の使用を控えろ」と言われたことが、ってのがヒネクレた思いを抱いた理由なのだが、それがルール化されている以上、理由はどうであれ守らなければならないのだろう。

「通話による他の乗客への迷惑、医療機器への悪影響を無くしたいと考えます。ご協力ください」だったら、きちんと背景が説明されていて納得を得やすいのだろうが、大勢の乗客に守ってもらおうにも「実際何したらえぇねん」と、ルールとしては抽象的過ぎる。手っ取り早く目標を満たす状態に持ち込むには、理由や背景を多少排除したうえで「電源を切れ/使うな」という方が伝わりやすいのは確かだ。

企業内での目標設定、施策でも同じことが言える。

上層が描く目標というのは、長期的視点に立って考案されることからも抽象的で汎用的なものだ。そうしたなら、私を含む末端の人間から、分かりにくいだの、具体的じゃないとイメージがわかないなど文句を言う構図が見え隠れもするが、これが具体的過ぎると自主性が認められない高圧的な印象を与えたり、現場の実態とそぐわずに目標が形骸化する恐れもある。

性善説を前提とする場合に限られるのだが、「優先座席での携帯電話の使用は控えてください。医療機器への悪影響を懸念するからです。」と言われれば、ガラ空きの場合は乗客の自主判断に任せたうえで実態の運営方法に近く負担のないやり方で目標への到達が期待できるのではないか。もう少し短いフレーズで収めるという要素では再考の余地はあるのだが。。

性善説/性悪説と統率(マネジメント)に対する考えは別の機会に述べることにしたい。

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