7月
2006
幻想に惑わされてた
羞恥心というのは、元来生まれながらにして持つものではなく、育った文化が形成するものだという話を何かで読んだ。着衣しないことには恥ずかしいという感情は、一部の文化では湧き得ないのだという例が添えられていたように思う。
発想を拡げてみたら、別に羞恥心だけじゃなくて、美徳やジョウシキ、誇りやポリシーも生まれながらにして持ってるものじゃない。
「良い子」であるための必要要素は、全てその文化によって形成されるものであって、本質ではないハズだ、幻想のハズだ。
私のような人間が「できちゃった婚」したと聞いて驚くのは、そうした既存のスキーマ内での発想であって、それは移ろいやすく、変化せずあり続けるものでもないと最近思う。まだ取っ払うべき幻想に取り付かれてるかも知れない。
正解のある世界じゃない、あったとしても正解であり続ける世界でもない。
だから自分のやりたいようにやる?それは結論が早すぎる。例え振り回されてでも、一般常識に身を任せて良い子で一生を終えることが、エキセントリックな人生で茨のマイウェイを突っ走るより、よほど楽で幸福なことだって充分あり得るのだ。
むしろ「まずは、やりたいことを見つけなさい」とか「キャリアを描きなさい」なんてアドバイスは幻想の極みだ。本当にやりたいことだけして、感情に任せて生きることで幸せになってる人なんていないはずで、運と偶然がたまたま重なって皆今の自分がある。
カッコイイから、恥ずかしいから、自分に合ってるから、これしかないと思うから、普通に考えたらこっちの方がいいでしょ、それは良くないでしょ。一見、事前に描いていたように見える理由は、全部、描いていたものではなくて後付けではないか。結果の後で、自分を納得させるために、収まりよくするために、意識的・無意識的にすり込まれたものではないか。そう考えたうえで、現実的に今の文化、環境で生きていくために、世間との落としどころを見極めてみないと。
そんなことを考えるようになった。
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