信じるものは天国の夢を見るか

ずっと書き起こして見たかった。このエントリのタイトルは、半年ほど前から私の携帯電話のメモ帳に記録されていたものだ。なんだか、プチカミングアウトしたような気持ちだ。書くなら、ビールで気分の良い秋の真夜中、まさに今だ。
私の中にひとつの仮説がある。
「何かを信じてる(もしくは、思い込んでいる)やつは、(良くも悪くも)とんでもなく強い」
稚拙な例かも知れないが、ハリウッド映画で主人公が胸で十字きって死をも恐れず悪者に立ち向かう。もっと俗的な例をあげれば、向こうが勘ちがいしているにも関わらず当人はすっかりそうだ思い込んでいて、なぜか電話でヤイヤイ捲くし立てる(たいていの場合は向こうが怒っていたりして、当人の勘ちがいを説明するのに苦労する)。「これ、ホンマいいって」と傍若無人に厚かましくやたら何か勧める。どんな困難にも「神の与えた試練だ」と臆することなく踏ん張る。
こういう人達のことをどうも理解できなかった私が見つけたのは、当人らが「何かを強く信じている」ことである。そう「何か」に対して疑問を持たない、分からないことがない、あったとしても何とかなると思い込んでいる。これは危なっかしくも非常に大きなエネルギーを持っている、「強い」という形容しか思いつかない。さて、その「何か」が本当に信じるに足る真理なのか、それともただの思い違いなのか、気になるところだが、実はその矛先がどちらを向いているかはどうだっていい。問題は正しいかどうかではなく、他の人と方向が異なるか否かであると思う。それが本当に真理であるか、思い違いであるかを誰かが判断することは非常に難しいだろう。多くの人が疑問に感じながらも、ある人のエネルギーで、いわゆる「ゴリ押し」される光景は腐るほどある。果たしてそれが当人にとって幸せなのかどうかは、(何かを信じない私には、すぐに)疑問を感じてしまう。しかし、例えば神の存在を信じたまま、一切の疑問を持つことなく死ねたら、それはそれで幸せなんだろうな。

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