信じるものは天国の夢を見るか

ずっと書き起こして見たかった。このエントリのタイトルは、半年ほど前から私の携帯電話のメモ帳に記録されていたものだ。なんだか、プチカミングアウトしたような気持ちだ。書くなら、ビールで気分の良い秋の真夜中、まさに今だ。
私の中にひとつの仮説がある。
「何かを信じてる(もしくは、思い込んでいる)やつは、(良くも悪くも)とんでもなく強い」
稚拙な例かも知れないが、ハリウッド映画で主人公が胸で十字きって死をも恐れず悪者に立ち向かう。もっと俗的な例をあげれば、向こうが勘ちがいしているにも関わらず当人はすっかりそうだ思い込んでいて、なぜか電話でヤイヤイ捲くし立てる(たいていの場合は向こうが怒っていたりして、当人の勘ちがいを説明するのに苦労する)。「これ、ホンマいいって」と傍若無人に厚かましくやたら何か勧める。どんな困難にも「神の与えた試練だ」と臆することなく踏ん張る。
こういう人達のことをどうも理解できなかった私が見つけたのは、当人らが「何かを強く信じている」ことである。そう「何か」に対して疑問を持たない、分からないことがない、あったとしても何とかなると思い込んでいる。これは危なっかしくも非常に大きなエネルギーを持っている、「強い」という形容しか思いつかない。さて、その「何か」が本当に信じるに足る真理なのか、それともただの思い違いなのか、気になるところだが、実はその矛先がどちらを向いているかはどうだっていい。問題は正しいかどうかではなく、他の人と方向が異なるか否かであると思う。それが本当に真理であるか、思い違いであるかを誰かが判断することは非常に難しいだろう。多くの人が疑問に感じながらも、ある人のエネルギーで、いわゆる「ゴリ押し」される光景は腐るほどある。果たしてそれが当人にとって幸せなのかどうかは、(何かを信じない私には、すぐに)疑問を感じてしまう。しかし、例えば神の存在を信じたまま、一切の疑問を持つことなく死ねたら、それはそれで幸せなんだろうな。

2

ま、ま、ひとつクリックでも

サイトの書くページにズバーンと広告を掲載してみた。今まで、申し訳程度に2件表示されていたから、純粋に倍になったことになる。
自分で好きな広告を選らんで好きなだけ配置できるのが、SNSで日記書くのとは違った自宅サーバーのメリットだ。2005年から広告を掲載しているが、なんとその収益は5ドルぽっきりだ。一日1セントとは、笑わせてくれるじゃないか。1ドル=117円で計算しても600円にも満たない金額だったということをさっき知った。これでは、イマドキ小学生ですら喜ばないぞ。
せめて、自宅サーバーのコストが賄えるほど収益を得て、自給自足的な運営を図りたい。それ以上収益があれば、 んじゃ寄付しよう。恵まれない人(おまえじゃないッ!)に寄付することにしよう。うん、そうしよう。1年と3四半期で5.16ドル、先はまだまだ長そうなので、考える時間はたんまりありそうだ。

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自殺とか虐待とか

発熱ですっかり早くに寝てしまった妻と、随分疲れ気味の娘を寝室において、ビールを片手にニュースを見る。

親の立場である一人として随分考えさせられるものがあり、ビールが旨いと思ったのも束の間、なかなかダウナーな雰囲気で早々と夕飯を食いきってPCに向かう。自分で何が書きたいのかも分からないのだが、何もなくボヤッと考えてそのまま喉元を通り過ぎるより、今思うこと考えることを素直に書き起こしてみようと思った次第なので、とりとめのない乱文を容赦願いたい。

自殺について言うなら、こうして書く以上何かしらメッセージを発するべきなのだろうが、「生きたらいいことあるって」なんて野暮ったい説得は、自分に当てはめて考えても全く持って説得力がない上、「そりゃアンタは楽しいでしょうが」とかネクラな考えに陥ってしまうのでこれを主張とするのは控えたい。自分に当てはめるなら、やっぱ子供に苦労かけたくないと考えられるのが一番の処方箋だろうか。
そう書いてしまうと、次に児童虐待の話がしづらくなる。子供が言うことを聞かないのは、世界津々浦々どこの子供も一緒であると判っているにも関わらず、「ホントにコイツぁ言うこと聞かねぇ」と腹を立ててしまう自分に腹を立てて、抜け出せなくなってしまってる自分がまたイヤになって、とループに陥るものだ。

子供が悪いわけでも、親が悪いわけでもない(酷い虐待の場合は別だが、誰にもグレーな虐待を含む育児ノイローゼはあるものだ)。現在でも世界で億単位の「親」がそうして悩み育てている訳だし、過去に遡れば、それこそ数に数え切れない「親」が存在し、子供を育ててきたのだ。
私自身、絶対に自殺はやめようとか、何があっても虐待はしちゃいけない、なんて言える立場ではない。誤解を恐れず言うなら、他の人と同様に、死んだ方が楽だと思ったことが過去はあるし(いつだったろうか)、児童虐待なのかそうでないのか自分でも判断のつかないグレーな行為がないわけではない。楽になれる局所解を求め急ぐのもいいだろう。答えを出さず先送りにして悩み続けるのも悪くない。きっと良くなる、なんとかなると根拠のない楽観で自分に言い聞かせるのもアリだ。

誰に相談したって、ヒントはあっても答えがもらえるものじゃない、相談先だって多かれ少なかれ悩みながら生きてるのだし。

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