今感じる閉塞感

俺が今感じてる閉塞感をリアルな言葉にしてやるよというエントリを見つけたのだが、これがなかなか面白い。自身が「某大手国立大学卒業、25才、大手IT系企業に勤める優秀な社員」と自己紹介するくらいだから、そりゃ私なんざ手も届かないくらいの基礎学力をお持ちなのだろう。逆にそれ故に今の閉塞感とが対比され、コントラストが高く映し出されているように見える。
さて、これに似た閉塞感は、おそらく誰にでも(とは言い過ぎまでも、限られた一部の人だけに当てはまる思いではないはずだ)あるように思うが「俺も含めて、おまえら正気か?」の後に続く以下の記述あたりで、私のアタマの地図をかすめる所があったので、まだ言葉にできず温存しておいたネタだがエントリとして産んでみる。

そこで「やりたくないよ」と言えない事情がある。そんなことを言ったら生産性が低下する。他の企業との競争に負ける。「はい」と言い続けてべらぼうに働く社員を持って、低コストで高い生産性を確保してる他の企業と競争したら負ける。潰れる。食えない。

私の場合、そもそも「生産性上げてどーすんの」という素朴な疑問が湧いて出る。競争に負けて潰れて仕事に困る、という答えを終着点として捉えるところに原因があると思っている。多くの場合、売り上げの増加、コストの削減(生産性向上)、シェア拡大、まー大方この辺りが終着点として耳にするあたりだろう、それ以上で上位に位置づけられる目的を耳にすることは滅多にない、あったとしても、その場の風のように、薄く静かに流されてしまっている。触れてはいけない腫れ物のように「なぜ」が出てこない。「もっと仕事をするために、仕事をする」という、言葉にすれば誰もが疑問を抱くはずの循環の中に、私を含め当たり前のように居続けてはいないか。
互いに競争する中で非協力的な戦略を選択することは、将来にわたって持続性に欠けることは明らかだ。トラックバックしたエントリに絡めて戻ると、ただ短期的利益に向かう無意識の圧力に流され「いいえ」と言わずに過ごすなら、あまりに多くの機会を逃していることにならないだろうか。

オカアサンがイチバンデース

最近、重苦しくセンシティブなことも果敢に書いてみる私は、なかなかのチャレンジャーさんだ。
近頃多い幼児・児童虐待のニュースが多い。もちろんそんなニュースを妻と目にすることもある。どちらかというと子供が好きな私は、そんな不憫な子供たちを知って「可哀想だよなぁ、うちに養子にもらうか」みたいな感想(?)を漏らすことがあった。しかし妻の返答は、なかなか私にとってショッキングなものだった。
「それでもお母さんが一番なのよ」
(実際には「せやかて・・・」から始まるコテコテの関西弁で発せられる)
ニュースの例があまりに極端な例であるとしても、自らの生命の危機を秤にかけるまで母親への好意(表出し得ない無意識的なものであっても)とは大きいのか。なんとなくは分かる。理屈を抜きにして「お母さんが一番」だというのは想像するに難くない。しかし、子供は、生命を危険に晒してまで、それでも母親の近くにいたいと思うものなのだろうか。思春期にならずとも「あんな母親は『母親』じゃないわ!」と突っぱねるようになるために、その幼き子にないものとは何なんだろう。
思い起こしてみれば、私の娘についても、私と妻のどちらかを選択する機会がある場合(遠足の付き添いから、日常では風呂の相方選びまで)、私は随分と劣勢を強いられている。私が選ばれるのは、だいたいその理由は、おそらく私と一緒にいることに対する、その希少性であると思われる節がある。面白いことに、妻がなにかしらの理由で不在の場合、娘は、自身から見た母方の祖父祖母(つまり私の義父義母)よりも、私のことが一番だと大きく主張する。つまりは、環境において一番血縁の近い存在にすがろうとするも、同じ距離において複数人が性差ある場合は母親側にすがろうとするのでは、という考えが見えてきたりする訳だ。
この話もいつものように、どこに着陸するか分からないままだが、「何かしら理由は分からんが、妻には勝てない」と仮置きして終わりとする。

作文なき世界

私は作文と読書感想文が大の苦手だ。

それがこうして、稚拙な文章をインターネットを通じて全世界に発信してしまっているんだから、私のMッ気が「よほどどうかしてる」か、(ないと思うが)コンプレックスに対する努力の軌跡だと言えるかも知れない。極力、後者だと信じたいが。

苦手と明言するのは、小中学生の時にそのテの宿題に散々悩まされた思い出に起因している。テストでもないのに、静まった教室でコツコツと鉛筆の音だけが響く教室。表題と自分の名前を書いた原稿用紙を前に、毎回20分ほど固まっていた覚えがある。爪を噛んで、貧乏揺すりをして、時計を見ながら、頭の中では堂々巡りを繰り返している。

そう思い出すと、今こうしてブログ編集画面での光景と何ひとつ変わらない。違うのは「書けない?」と話しかけてくる教師がいないことだけだ。「いや、書こうと思わないんです。」私がそんな卑屈なことを発しない子供でなくて良かった。

読書感想文は、さらにお粗末だ。

そもそも感想文て何だ、「どう感じましたか」と、何回、それがどんな聞き方で問われようとも答えは変わらない「いや、主人公は可哀想やなと思いました。」そう、これだけでは、タイトル、自分の名前、本文を含めて3行で済む。おそらく時計も5分程しか経過していないハズだ。ああ思い出すだけで面倒臭い。大人になって嫌なことも多いが、作文と読書感想文が強要されない世界は、なんと素晴らしいのだろう。
現実逃避へ向かう内部的圧力が強く、長文をもって「作文が嫌いだ」と、なんとも矛盾した、しかも何が言いたいのか分からないままのエントリを書いてしまった。唯一言えるのは、私のMッ気が「よほどどうかしてる」ということになろう、いや繰り返すがそうでないと信じたい。

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