語れない自分を語ってみる

自分を語りたがらない人々というエントリにハッとして投稿画面を立ち上げる。
先日大学の友人と話していた時に「(おまえ)変わったよな」と言われたことがあった。その時に、どのような表現をしたかうろ覚えだが「おれは昔からあまり自分のことは積極的に話さないぞ」やら何やら回答した覚えがある。そのことが、おそらく当エントリに「ハッ」とした理由なのだろう。
カミングアウトでも何でもないが、私は、どちらかと問われれば好き好んで自分のことを語らない方だと認識している。何が好きかと問われれば「何でも」と答えるのが楽だし、どちらが良いかと問われれば「どちらもメリデメあるよね」と濁したまま「応えて」、その場をやり過ごす方が楽だと思っている。自分の主張は、いったん脇においておきたいと考えがちである。これは私がハラグロと揶揄される所以でもあると思っている。
上記リンク先において、一部コメントやトラバされているような「個人情報の開示」についてがエントリの主旨でないことは、

クローズドのmixi日記でも、自分自身についてほとんど書かない..

というあたりから感じ取っていただきたいと切に願う。まして「自分を語りたがらない人々」追記
のトラバにあるような、幼児期の劣悪な家庭環境のせいでそういった人が大量発生しているのでは(愛せない・愛されない人々の世界)、なんて言及は、因果を結びつけるの早すぎじゃないかという気がしてならない(もちろん、そういった原因も一部あるのだろうが、少し浅薄じゃないだろうか)。こんな私だから、左記のような主張の強い記述は、まさに、清水の舞台から飛び降りるぐらいの覚悟であり、また内心すごくビビっている。
話は横道に逸れてしまった。さて、自分の主張を控えることは、これからの社会において不利に思われがちだろう。また自分でもそうなってくるだろうと思う。皆でなぁなぁで意思決定されていたのとは異なり、最近、声の大きい者がなし崩し的に主導権を握るような場面に頻繁に遭遇しないだろうか。
しかし、あえて、主張を控える側を自認する立場から良い点を挙げるとすれば、客観的視野を定常的に保てることに尽きる。議論が白熱し、枝葉末節の良き悪きばかり視線が注がれ、最初に掲げたビジョンを見失ってしまうこともあるだろうが、これはスマートだとは思えない。自身の主張を最初に控えた故に、統合的な主張が後から芽生えてくることもある。(私が、本来自己主張したがりであるにも関わらず、すぐに言葉にできず一度腹に落としてから文字でないと表現できないためではないか、という疑念があるのだが、話が散漫しそうなので留める)
このエントリも、私の強い主張を述べるような口調だが、自身で読み返せば「いやぁ、こんな意見もあるんじゃないですかね」ぐらいの中庸的ポジションを狙いに行っているようにしか見えてこない。やっぱり自分の意見を語るのは苦手だ。面白いエントリだ。せっかくなのでトラバさせていただいた。

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