5月
2007
オカアサンがイチバンデース
最近、重苦しくセンシティブなことも果敢に書いてみる私は、なかなかのチャレンジャーさんだ。
近頃多い幼児・児童虐待のニュースが多い。もちろんそんなニュースを妻と目にすることもある。どちらかというと子供が好きな私は、そんな不憫な子供たちを知って「可哀想だよなぁ、うちに養子にもらうか」みたいな感想(?)を漏らすことがあった。しかし妻の返答は、なかなか私にとってショッキングなものだった。
「それでもお母さんが一番なのよ」
(実際には「せやかて・・・」から始まるコテコテの関西弁で発せられる)
ニュースの例があまりに極端な例であるとしても、自らの生命の危機を秤にかけるまで母親への好意(表出し得ない無意識的なものであっても)とは大きいのか。なんとなくは分かる。理屈を抜きにして「お母さんが一番」だというのは想像するに難くない。しかし、子供は、生命を危険に晒してまで、それでも母親の近くにいたいと思うものなのだろうか。思春期にならずとも「あんな母親は『母親』じゃないわ!」と突っぱねるようになるために、その幼き子にないものとは何なんだろう。
思い起こしてみれば、私の娘についても、私と妻のどちらかを選択する機会がある場合(遠足の付き添いから、日常では風呂の相方選びまで)、私は随分と劣勢を強いられている。私が選ばれるのは、だいたいその理由は、おそらく私と一緒にいることに対する、その希少性であると思われる節がある。面白いことに、妻がなにかしらの理由で不在の場合、娘は、自身から見た母方の祖父祖母(つまり私の義父義母)よりも、私のことが一番だと大きく主張する。つまりは、環境において一番血縁の近い存在にすがろうとするも、同じ距離において複数人が性差ある場合は母親側にすがろうとするのでは、という考えが見えてきたりする訳だ。
この話もいつものように、どこに着陸するか分からないままだが、「何かしら理由は分からんが、妻には勝てない」と仮置きして終わりとする。
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