教えてリチャード先生

退社した時間でも、まだ書店が営業していたので立ち寄る。特に目当ての本はないが、通勤時の書籍をきらしておりウィンドウショッピングみたいな感覚で入店。閉店まではあと30分、吟味はできないが少なすぎる時間でもない。
新刊、新書、コンピュータ、投資、ビジネスといつものとおり棚をめぐり、どれも私のハートを射るには今ひとつパンチの欠けた結果に焦りを覚える。そう、ここで見つけないと2,3日活字に飢える。ライトなものではなくて、なんかこう、こってりとして栄養価の高そうな食事を欲する男子高校生の如く、目だけを動かして棚を順に追う。「あーこんなペラペラしたやつじゃなくてさー。」
追いかける視線は、そのままコンピュータ科学分野に到達した。大学ん時に図書館で片っ端から読んだ分野なども目にとまる。確か、数式が出てきた時点でどの本も読むのを止めた記憶が蘇る、懐かしい。クラスタリングとかマイニングとか、もっぺんきちんと読んでみようかな。とか浮かんだ矢先、一際目立つ一冊が視界に飛び込んできた。圧倒的存在感だ。
これはきた。
そういや以前から「読みたい脳内リスト」に含まれていた。
利己的な遺伝子 <増補新装版>
ジャン。この本、こんなにデカかったのか、4cmほど厚さあるぞ。毎日カバンに入れるのが大変だが、これなら2,3日どころか少なくとも一ヶ月間は通勤時間が楽しめそうだ。
いっそ勤務時間半分にして残りを通勤時間に充てたりできないだろうか。あー、それとも勤務時間を半分にして残りを休憩にできないだろうか、いや、勤務時間を半分にして残りを全て睡眠時間にできないだろうか。ていうか昼寝時間くれ。シエスタ万歳、あれ?

語れない自分を語ってみる

自分を語りたがらない人々というエントリにハッとして投稿画面を立ち上げる。
先日大学の友人と話していた時に「(おまえ)変わったよな」と言われたことがあった。その時に、どのような表現をしたかうろ覚えだが「おれは昔からあまり自分のことは積極的に話さないぞ」やら何やら回答した覚えがある。そのことが、おそらく当エントリに「ハッ」とした理由なのだろう。
カミングアウトでも何でもないが、私は、どちらかと問われれば好き好んで自分のことを語らない方だと認識している。何が好きかと問われれば「何でも」と答えるのが楽だし、どちらが良いかと問われれば「どちらもメリデメあるよね」と濁したまま「応えて」、その場をやり過ごす方が楽だと思っている。自分の主張は、いったん脇においておきたいと考えがちである。これは私がハラグロと揶揄される所以でもあると思っている。
上記リンク先において、一部コメントやトラバされているような「個人情報の開示」についてがエントリの主旨でないことは、

クローズドのmixi日記でも、自分自身についてほとんど書かない..

というあたりから感じ取っていただきたいと切に願う。まして「自分を語りたがらない人々」追記
のトラバにあるような、幼児期の劣悪な家庭環境のせいでそういった人が大量発生しているのでは(愛せない・愛されない人々の世界)、なんて言及は、因果を結びつけるの早すぎじゃないかという気がしてならない(もちろん、そういった原因も一部あるのだろうが、少し浅薄じゃないだろうか)。こんな私だから、左記のような主張の強い記述は、まさに、清水の舞台から飛び降りるぐらいの覚悟であり、また内心すごくビビっている。
話は横道に逸れてしまった。さて、自分の主張を控えることは、これからの社会において不利に思われがちだろう。また自分でもそうなってくるだろうと思う。皆でなぁなぁで意思決定されていたのとは異なり、最近、声の大きい者がなし崩し的に主導権を握るような場面に頻繁に遭遇しないだろうか。
しかし、あえて、主張を控える側を自認する立場から良い点を挙げるとすれば、客観的視野を定常的に保てることに尽きる。議論が白熱し、枝葉末節の良き悪きばかり視線が注がれ、最初に掲げたビジョンを見失ってしまうこともあるだろうが、これはスマートだとは思えない。自身の主張を最初に控えた故に、統合的な主張が後から芽生えてくることもある。(私が、本来自己主張したがりであるにも関わらず、すぐに言葉にできず一度腹に落としてから文字でないと表現できないためではないか、という疑念があるのだが、話が散漫しそうなので留める)
このエントリも、私の強い主張を述べるような口調だが、自身で読み返せば「いやぁ、こんな意見もあるんじゃないですかね」ぐらいの中庸的ポジションを狙いに行っているようにしか見えてこない。やっぱり自分の意見を語るのは苦手だ。面白いエントリだ。せっかくなのでトラバさせていただいた。

コマなし問題解決に光

娘の人生最初の努力の学習体験の場である自転車の補助輪外し(通称:コマなし問題)を巡り、娘は今日12日、公園でコマ無しの初めての運転で突然乗りこなすという快挙を成し遂げた。既に10~20mくらいは親が手を離した状態で乗り進められる状態にあるという。(写真
父親(26)と二人で本来コマ無し練習に来た娘(5)は、公園にこぎ始めだけ後ろから背中を少し押してもらうだけでコマ無し自転車を10m程運転。父親の証言では、バランスを崩したときに必要なハンドル操作と体重移動が、それなりに出来ており「娘も(初めてで)乗れたときは、自分で驚いたらしく、二人でただ笑うしかなかった」
さらに父親は「こぎ始めや、こけ方は、まだまだ初心者のそれだ」と、既に次の目標に意欲的な姿勢を見せた。
母親(26)は、運動神経のなさから幼児期に泣きながらコマ無し問題と取り組んだ経験を明かし「突然練習なしにコマ無しが乗れるとは思えない」と驚きを露にした。さらに、母親の妹(19)からは「驚いた。しかし、人生最初の挫折経験が味わえないのは、彼女の後の人生において大きなロス」と強がりとも取れるコメントを寄せた。
幼児期の身体能力と自転車のコマ外し研究の第一人者である駒取研究所の駒取転二研究員は「非常に珍しい例。父親の運動神経、および保育園でのバランスの良い教育方法が要因として考えられる。しかし母親が『私の愛の力のおかげだ』と発したことから、この問題は補助輪外しへの寄与を競い合う別の問題へと形を変えて始めている」と警告を発した。

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