6月
2007
話が長い人が話す話
話が長いか、短いかと問われれば、間違いなく私の話は長い。とっても長い。
話は要点を簡潔に。とか、結論は先に。などと、しきりに叫ばれている今、私の話が長くなる所以と、長い話に込めた長い思いを書き留めてみたい。
客観的に私の親父のことを「話長ぇな」と思うことがある。しかし、よく考えてみると私も同じように長いのに気付く。同じように、というのは、それは「背景が長い」という理由だ。「この間さぁ…」で始まる話は、結論(オチ)となる時点から相当遡った、ある時点を話の起源としている。昨日の話をするのに、生い立ちから話し始めるようなものだ(あまりに極端だが)。
オチが見えない(親父の場合は、それだけ話してオチが「見えない」のでなく「ない」場合があり驚かされる)、途中で飽きる、聞き手に時間を強いるなど、悪いこと尽くめなこのテの長い話。しかし、見方を変えると、この長い話にも、それなりの色彩を帯びてくるようになる。
用件を伝えるのに、その結論を簡潔にまとめるのは、それこそもっともな話だ。しかし、そこに相手に対して「共感」を求めると、相互に共有できているコンテキストの量に大きく依存してくる。会社の関係者の方に、直接担当しない内容であってもメールのCC、BCCに関係者「っぽい」人物を宛先に含めて
送信されている方がいらっしゃる。言い古された月並みな表現であれば「情報共有」の一言に尽きるのだろう。しかしその真意は、コンテキストや価値観の共有と、そこから得られる前進的な対話への期待なのだろうと思っている。少々長くなるが興味深い話を引用してみたい。
日本語では、メッセージがそれだけで了解できる文法的な決まりによって伝達されることは少なく、文脈に頼ることが多い。(中略)この曖昧性は、日本語の動詞が文の主語(人称)に応じて格変化しないということにも見ることができる。インド・ヨーロッパ系言語では、動詞の意味が人称によって違ってくるので、基本的には人称に応じて格変化する。日本人が他人の言ったことに共感かつ同意しやすいのは、動詞が人称にかかわらず同じ形で用いられるからである。日本人のものの見方が、グループ・レベルで、ときにはより大きな社会レベルで、自然にいとも簡単に共有できるのも、この日本語動詞の共感の容易さのためなのである。しかし一方でそれは、日本人が自分の考えや感じていることを自分のものとして表現することが難しいことを意味する。(野中郁次郎・竹内弘高「知識創造企業」東洋経済新報社)
例えば、ヘタに結論の伝達を急いで「そもそも、どうして――」という質問をされるのであれば、長くなっても「そういう目的であれば――」なとどいった切り出し方での提案を得たい。きっと長い話のウラには、そういう話が隠れている。