EFL(エコ・フロ・ライフ)の限界について

我が家(賃貸)の風呂が壊れた。ここ数年、火力調節は問題ないものの、湯沸かし器の元にある火力調整(3段階トグル式)が動かず「2」に固定されたままになっていた。夏は一番冷たくしても熱めで、冬は一番温かくしてもぬるいという仕様だ。それが今年も寒くなるにつれ、どうも「例年より」温度が上がらず、とうとう家族会議にて「こんなぬるいシャワーが浴びれるか」と議題に上るようになった。「ガスの消費量が少なくて済むから『エコ』」などと自分を騙すことも難しくなってきた。娘に至っては「温かいお風呂に入りたい」と何とも惨めで哀れな発言を繰り返している。
そもそも、うちの賃貸の家はファミリー向けマンションで、いかにも「高度成長期」らしい昭和の臭いを感じさせる。背景にオープン期の万博公園が映っていたとしても、なんら違和感のない景観だ。そんな家の風呂だから、当然バランス釜と呼ばれる浴槽の脇にメカメカした風呂釜が設置されており、バルブを開けたガスに対しハンドルをカチカチ回して起こした火種を着火させるなんとも「レトロ」な仕様なのだ。同年代の人間なら、人によってはこんな湯沸かし器を「知らない」可能性すらある。
先週末にガス会社に調査に来てもらった。風呂釜を開けて中を見るなり、「うーんーー」とうなって固まってしまった。次に発せられたのは「・・・きっついなぁ」である。何だかよく分からんがキツいらしい。だいたいこのテの風呂釜の寿命が10年、もって12、3年らしいのだが、うちの釜は製造が90年。すなわち17年近く使っていることになる。何だかよく分からんがキツいのもうなずける。
で、家主の了承を得て、取り替えることになった(修理できない)のだが、問題は数日やそこいらで風呂が直らないことである。最低でも必要な物品の調達に二週間を要するとのこと。夏の暑い時ではないとはいえ、二週間風呂がないと困る(逆に夏なら水でシャワーを浴びても良いのだが)。
ひとまず今日は帰宅際に銭湯に行って露天もサウナも十分に満喫してきたのだが、手持ちのカードが「銭湯」一枚では、あまりに心もとない。
案1:会社にある宿泊用施設の風呂を使って帰る。なかなか気分的には最悪のカードだ、鞄に「お風呂セット」を忍ばせて毎日出社なんぞしたくはない。案2:妻の実家、もしくは妻の祖母の家の風呂を借りる。これは妻と娘には非常に強力なカードだ。しかし、私はなんだか気を遣うのと、そもそも平日は「風呂貸ぁーしてぇー♪」などと家に上がりこめるような時間に帰宅していない。案3:パス。2,3日風呂に入らずスキップする、うわ斬新ッ。案4:水風呂。これはパスする以上になんだか屈辱的だ、負け犬感が拭えない。

自虐的な苦労話はやめにしないか

忙しさをネタにするのをもうやめにしたい。
厳密に言うとここで「忙しさ」と表現したのは、自身がどれほど献身的であるか、また多くのモノを仕事のために犠牲にしてきたか、ということ。そしてネタにしたくないとは、自嘲的な笑いのネタとしてはもちろん、話のネタとしても取り上げたくないと考えている。
コンピュータシステム関係に従事する人は、トラブルや広い意味でのインシデントにまつわる「武勇伝」に群がる傾向が強いように感じている。おそらくきっと、プロジェクト ―時限を持ちステークホルダが多い仕事― に従事する人全体に想定的に言えることかもしれない。
どんな困難に遮られても諦めないその胆力を否定するつもりはない。また、事例共有そのもののメリットを切り捨てるつもりも勿論ない。
しかし、事前回避の可否や結末の成否はともかく、度重なるトラブルや突発的に表出するインシデントを面白おかしく披露しては、自虐・自嘲的な笑いや、果てには自身の献身に対する慰めや労いを誘い請うだけのものに対し嫌気が差した。しかし一方でそうして他人からこまめに「承認」を食いつなぐことが、精神的枯渇から身を守る重要な術であることも一定量理解しておきたい。
これは、世の中がどうとか言う以前に私自身を反省する意味が強い。犠牲を払い身を粉にして捧げ、その身体にめいっぱいストレスを抱え込んで、一体その先に何を求めているのだろうか、得られるモノは何だろうか。シェア、貴重な経験と自信・やりがい? 実は、教科書的なその回答のもう一歩先まで考えてみた所で冷や汗をかいた。
これらが得られたとして、その次に得られるものは「さらなる仕事」だったりしないだろうか。あれ、金銭的・時間的自由のよって報われるとは到底想像できない。何やらとんでもなく恐ろしいスキームに囚われている気がしないでもない。
まさに生き残りを賭けてまで、生き残るモノとは法人格だけだったりしないか。このスキームが無理あるものだとすれば、これに誰も気付かないのは危なっかしい。意図されたものだとしたら相当クロい。できれば気付くものの対処できずモガき苦しんでいると思いたい。
どうしても、言いたいことが感情的で挑発的になってしまった表現力の乏しさが若干悔しい。正直「やめにしたい」というより腑に落ちないというか、疑問を感じている。じっくり悩んでみたい。

できない・足さない

最近、新しいことを積極的に始める機会が多い。というか、多少無理してでも新しいことに身を投じてみている。新しく趣味としてゴルフを始めてみたり、仕事が終わったあとに英語をイチから習ってみたり、空いた時間で他の仕事をしてみたり。。
もともと時間が「ないない」と思い込んでいたこともあり、また強烈に面倒臭がりの性格からして、この状態は、無理をしているというより躍起(ヤッキ)になっていると表現する方が近いかも知れない。長い人生で見たときにこの数年は、私にとって人としての器や幅を広げるために必要な「踏ん張り時」なのだろうと考えている。
しかし、一方で何かを止めてみたいとも思っている。新しく何かを始めるのと同じくらい強い気持ちで、何かを手放したい。教科書的な「良い」例なら、それはタバコやテレビゲームかも知れないし、些細なところでは、それは買ってみて「たいして面白くないな」と思えるような書籍の購入や、聴いていた音楽の1ジャンルかも知れない。
時間が有限である以上何かを新しく詰め込めば、当然何かに割いていた時間は少なくなるのは自明の事実だ。精神論を振りかざして「時間は作るものなんだよ」と言ったところで、睡眠時間を割いてまでして体調を崩すようでは嘲笑の的だろう(もちろん「あれもこれも」と求める欲は大事にしたい)。
できないこと、やらないことをリストアップしてみても面白いかも知れない。真っ白なキャンバスに四隅の余白から描くことで本来の対象物のシルエットを浮かび上がらせる絵画のアプローチを、自己表現という手段に利用してみてはどうだろうか。コレとアレができません、ちなみにアレは大嫌いです、こんな事には欠片も興味がありません、あんな事はどーでもいーと思ってます、それが今の私です。
選択と集中やらコアコンピタンスやらアウトソースやら、ビジネスの世界で騒がれていることも、結局は自身の余白を表現・定義することが逆に難しいということの裏返しなのではないだろうか。

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