働くという行為を考えてみる

大学の友人が激務の悲惨な情景を嘆いていた。できればすぐにこのエントリを書き起こしたかったのだが、当初書き始めて考えがうまくまとまらないこともあって、一週間程「寝かせて」いた。
余裕なくスケジュールされた掛持ちのプロジェクト、他部署からも手がないと応援を断られ、毎日仕事の催促と火消しに追われる日々が3ヶ月続いているという。精神的には既に参りきった様子が伺えるうえ、睡眠や体調に異変が見られるようだから、きっと私が想像しても余りある状態なのだろう。私の勤め先グループから見れば世間一般的にはライバル会社とも言える会社に勤務されてたことから、どこも大小差はあれど似たようなものだと感じる。私のように壁が高いと知るとすぐに諦められる胆力の浅さと違い、非常に真面目な彼のことであるから、きっと多くを抱え込んで苦しんでいるのだろうかとの想像と共に、彼の努力不足や誇張された表現ではないことも確信する。
その友人への励ましが寄せられているのだが、ある程度想像できていたにも関わらず「どこも一緒ですね」との記述が多いことに改めて驚かされる。
そう、私が「どこも似たようなもの」としたヌルい表現では済まされず、本当に「どこも一緒」なのだ。表出化した事象として「一緒」であることは間違いないのだろうが、その原因まで一緒なのだろうか。彼を取り巻く上司や同僚達もバカばかりではないだろうし、決して彼に対し意地悪をしている訳ではないことは想像に難くない。かといって、たまたま運が悪いとか貧乏くじを引いたとか場や間が悪かったと、偶然で片付けられる話でもない。
想像以上に加速度を増すグローバリゼーションや、本質を無視した形態模写のように導入される成果主義とその価値観、そんな大きな潮流の「狭間」に今の私たちがあると考えている。複数の大きな潮がぶつかり合う渦の中にある。後から回顧すれば、ほんの「過渡期」と表現されうるかもしれない。直属の上司や役員、お客さまも含めた誰しもそれぞれが、この大きな渦の中で行き先を求めてもがいているように映る。
「働く」という行為は、今後大きくその定義・意味が変わるように思う。今現在世界の大多数の間で暗黙のうちに合意形成されている「労働」は、渦に揉まれた人達によって様々な価値観の下でその意義が派生し、より包括的・概念的な意を持つ言葉として扱われるようになるのではないか。今は「働く」という行為の意義をそれぞれが見つめなおし、それぞれが再定義・再解釈する期間にあるように思う。
古き「労働」の枠では解釈しがたい働き方(今の時点では多くの人々にとっては働くという枠では捉えきれないため、新しい「経済活動」と表現した方が無難かもしれない)を最近始めた友人がいる。サラリーマンなんてまっぴらごめん、というロックな雰囲気の友人だから、そもそも渦に飛び込まず「渦の先」を意識せずとも見出したといえるかもしれない。
私や冒頭に挙げた友人のように、この時代において、まさにこの渦の中で生きる人間にとっては、渦の中から新しいロールモデルを探し出し、それを体現することによって渦の中からその道筋を示す使命があるのでは、と最近考えてみたりする。

コマなし問題 第二期

以前、娘の「コマなし問題」がたった一日にしてその幕を下ろしたことを記した。つまり、娘が自転車の補助輪を外されても突然練習なしに10mほどコケずに乗れてしまったため、その後「コマなし問題」が大きく問題視されることはなかった。
しかし、それは次の新たな問題を生んでいた。
その日以来、娘はすっかり「(補助輪を外した)自転車に乗れる」と思い込んでしまったのだ。発進時に親の補助を要し、ハンドル操作だけで曲がろうとする状態では、とてもではないが「自転車に乗れる」といえる代物ではない。しかもその後、公園へ自転車に乗りに行こうと誘っても「今日はコマ付けとくわ」と何やらビビり始めたような様子も見え隠れする。
これはマズい傾向にある。
実は心情的には理解できなくもないのだ。私自身、何事もゴールが見え始めた途端にいっきに歩みを止めてしまう性格だ。もうむしろ「詰めの甘さ」を具現化してヒトの姿かたちを持ったのが私だと言えるくらいだ。しかし何としてでも練習させない訳にいかない。私はこの事態を非常に重く受け止め「コマなし問題(2)」として解決に当たることとした。
ここ一ヶ月程、毎週のように公園に誘い出して自転車に乗せてみた。下り坂道発進で、発進時のバランスのとり方を習得させては発進時の補助を不要にし、コケると危ないのだが地面の抵抗が小さいコンクリート地では走る感覚を覚えさせ、公園から川沿いの遊歩道へ場所を移しては走行距離を徐々に伸ばしていく。
そして今日、対策の集大成として我が家から1.5kmほど離れた鶴見緑地公園まで自転車で行ってきた。もちろん娘はママチャリの子供乗せではなく、自分の自転車に乗っている。できるだけ道幅が大きく起伏が緩やかで、かつ車や人通りが少ない場所を選ぶなど細心の注意を払い先導していく。
どうやら問題なくついて来れてそうだ。いや、それどころか公園でもヒトの動きを見ながらきちんと回避できてる。闇雲について来るのではなく、先導の私が通行者を右から避けたとしても、後ろからついて来る娘は状況を見ながら左から避けたりしてくれてる。
これだったら、今後それなりに自転車で出かけることもできそうだ。今日の結果なら「コマなし問題(2)特別対策本部」も解くことができる。前回同様、駒取転二研究員にコメントをいただいてみた。
「珍しい例であるが故のユニークな苦労があったようだ。早くにおける父親の問題意識の高さと彼の指導力が、解決までの距離を短くしている。しかし彼女自身が非常に調子にノる性格だと思われることから、「乗れるようになった」という確証を自覚するまでの時間をできるだけ先延ばしすることが、結果的に気を緩めず、さらなる上達へ繋がるものと思われる。」

タニシに必要とされるワタシ

妻から聞いたのだが、生活保護を受けながら飼っているタニシの世話に余念がないという人の話。飼っている子(タニシ)が死んだら、改めて川へ捕獲に出向くらしく、いわゆる一時的なものではないらしい。まず直感的に感じたのは、まさか食用タニシなどというものがあるのかということ、次にタニシの世話に必要な費用を貯金でもしてたらいいんじゃないかということ。
妻に言わせると、どちらも「そうではない」らしい。
少なくとも食用タニシは近所の川で捕れるようなものではないらしいので置いておくとして、保護されるような生活にありながら、なぜタニシを飼う(しかも食えない)のか疑問なのだが、妻曰く「例えタニシであっても、自分が必要とされている、ということを実感したいのではないか」とのこと。「タニシでもかー? えー。タニシやで。」と2、3度聞きなおしたのだが、なるほどよくよく考えてみれば全く理解できないわけではない。
そういえば私の両親は、せっかく(私を含めた)子供たちが独立し始め自分たちの時間がおそらく増えてきたと思われるのだが、今になって(昨年くらいか)ペットを飼い始めた。今までペットなどには一切興味すら示さなかったにも関わらずだ。「この子(犬)がいるからあまり旅行に行けない」とこぼしながら「きちんとゴハン食べてー」と子犬を叱る母や、「今日は(散歩で)沢山歩いたわ」と疲れた顔を見せる父を見ていると、先述のタニシの話が思い起こされる。
例え生活水準が低くとも、もしくは、長い年月を経てやっと得られた自由な時間すらも、「自分が必要とされること」へ傾けたその原動力は、ただ「世話好き」であったり「上位承認の欲求」の一言で片付けられるものではない気がしてきた。これは「ある/なし」ではなく、程度の問題であるから「多かれ少なかれ、そういった部分はある」で終わってしまう話である。しかし上例2件は、私にとって少なからずショッキングな(決して悪い意味ではなく、ただ驚かされた)行動であったのは確かであり、人はそういった振る舞いを見せることがあることは心に留めておきたいと考えている。また、この例を仕事に当てはめて考えてみるには、あまりにも極端になりすぎる気がしてきたので興味はあるんだけれどもやめとく。

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