11月
2007
働くという行為を考えてみる
大学の友人が激務の悲惨な情景を嘆いていた。できればすぐにこのエントリを書き起こしたかったのだが、当初書き始めて考えがうまくまとまらないこともあって、一週間程「寝かせて」いた。
余裕なくスケジュールされた掛持ちのプロジェクト、他部署からも手がないと応援を断られ、毎日仕事の催促と火消しに追われる日々が3ヶ月続いているという。精神的には既に参りきった様子が伺えるうえ、睡眠や体調に異変が見られるようだから、きっと私が想像しても余りある状態なのだろう。私の勤め先グループから見れば世間一般的にはライバル会社とも言える会社に勤務されてたことから、どこも大小差はあれど似たようなものだと感じる。私のように壁が高いと知るとすぐに諦められる胆力の浅さと違い、非常に真面目な彼のことであるから、きっと多くを抱え込んで苦しんでいるのだろうかとの想像と共に、彼の努力不足や誇張された表現ではないことも確信する。
その友人への励ましが寄せられているのだが、ある程度想像できていたにも関わらず「どこも一緒ですね」との記述が多いことに改めて驚かされる。
そう、私が「どこも似たようなもの」としたヌルい表現では済まされず、本当に「どこも一緒」なのだ。表出化した事象として「一緒」であることは間違いないのだろうが、その原因まで一緒なのだろうか。彼を取り巻く上司や同僚達もバカばかりではないだろうし、決して彼に対し意地悪をしている訳ではないことは想像に難くない。かといって、たまたま運が悪いとか貧乏くじを引いたとか場や間が悪かったと、偶然で片付けられる話でもない。
想像以上に加速度を増すグローバリゼーションや、本質を無視した形態模写のように導入される成果主義とその価値観、そんな大きな潮流の「狭間」に今の私たちがあると考えている。複数の大きな潮がぶつかり合う渦の中にある。後から回顧すれば、ほんの「過渡期」と表現されうるかもしれない。直属の上司や役員、お客さまも含めた誰しもそれぞれが、この大きな渦の中で行き先を求めてもがいているように映る。
「働く」という行為は、今後大きくその定義・意味が変わるように思う。今現在世界の大多数の間で暗黙のうちに合意形成されている「労働」は、渦に揉まれた人達によって様々な価値観の下でその意義が派生し、より包括的・概念的な意を持つ言葉として扱われるようになるのではないか。今は「働く」という行為の意義をそれぞれが見つめなおし、それぞれが再定義・再解釈する期間にあるように思う。
古き「労働」の枠では解釈しがたい働き方(今の時点では多くの人々にとっては働くという枠では捉えきれないため、新しい「経済活動」と表現した方が無難かもしれない)を最近始めた友人がいる。サラリーマンなんてまっぴらごめん、というロックな雰囲気の友人だから、そもそも渦に飛び込まず「渦の先」を意識せずとも見出したといえるかもしれない。
私や冒頭に挙げた友人のように、この時代において、まさにこの渦の中で生きる人間にとっては、渦の中から新しいロールモデルを探し出し、それを体現することによって渦の中からその道筋を示す使命があるのでは、と最近考えてみたりする。
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