無駄に消費を誘うヤツは許さねぇ

古くからの友人の奥様が「来年4月以降もプリ○ュアやってますように」と願をかけていた。
来年の存続を願ったそれは、幼い女児に大人気の女の子向けヒロインアニメ(私たちの世代だとセーラー○ーンのようなものだ)。うちの娘もそのアニメは大好きで、日曜日になると必ず起きてテレビの前にしがみ付いている。
特撮・アニメに関わらずヒーローもの番組にある程度共通するものを、親の立場になった今見つけたことがある。ヒーローものは「コロコロ変わる」そして「コロコロ増える」のだ。
コロコロ変わる。
番組は概ね半年で終わってしまうのだが、先日ちょうどその中間あたりで放送回の中で新しい武器が登場した。私からすれば、それをどう使えば悪役をやっつけられるのか全く想像できない代物なのだが、とにかく新しい武器だ、きっと強い。この時、私の妻は、思わずハッとさせられる一言を発したのだ。 「またオモチャが増える!」と。
新しい武器が登場した、その放送分から番組の合間のCMには早速その武器が「玩具」として広告が始まっている。番組の内容と完全にリンクして玩具(グッズ)が販売されているのだ。もう極端な話、アニメありきのグッズではなく、グッズありきのアニメかと思わずにいられない。冒頭で取り上げた友人の奥様の呟きを思い出して欲しい、番組が新しくなり主人公やコスチュームが変わると、今までのグッズは全て過去のものになってしまうのだ。子供たちには当然「これ前のヤツやーん。前のヤツやーん。」と見抜かれてしまうため、気を許すと恐ろしくも激しい消費の渦に巻き込まれることになる。そういや過去に一度、大型玩具店で一つ前のアニメ番組のグッズが非常に安く叩き売りされていた。古いものだと見抜いた娘に対し「いや、今の子ら(主人公ら)も、これ持ってたでぇ」とチョロ負かして買い与えた記憶がある。
女児向けだけに限らない。同じ時間帯(確か時間は一つ前の枠)で放映されている○面ライダーだって然りだ。私たちが見ていた時代から「ライダー」との冠をそのままに一体何人ものヒーローが生まれていることか! その度に武器が変わり、コスチュームが変わり、そして変身のポーズも変わっている。是非、久しぶりに日曜日に早起きして見てみることをお勧めする。「電車切り!」と全く想像だにしない必殺技を理解するのに、相当な時間を要し、また長くヒーロー番組から離れていた時間の長さを感じることだろう。それくらい番組は何世代も生まれ変わり、その都度同じ枠組みの中で微妙なコンセプトを変えてきているのだ。
冒頭の友人の奥様は、「できればアニメもん(キャラクターもの)は身につけて欲しくないなぁ」とも併せて漏らしていた。その感想は多分に正しい、サイクルが短いうえ追いかければキリがないんだから。
ここでは、コロコロ変えることでサイクルを短くし、同じターゲットに対し繰り返しアプローチするスタイルを見てきた。エントリが長くなるので「コロコロ増える」ことでアプローチする対象を広げていくケースを次回見ていくことにしたい。 ohbatch聖夜に消費を憂いけり。

私の忘年会

会社のそれなりの規模の忘年会を欠席する。行けないのではなく、行かないと宣言のうえ欠席する。
煩わしい。と一言で済ませると極端で、若干ニュアンスが外れてしまいそうだが、しかし要はそんなところだ。別段、誰かが嫌いなわけでもなく、人間関係に問題があるわけでもない。もちろん、飲ミニケーションの担う効果や得られるものも否定しない。
ただここ最近、そこの浅い「労のねぎらい」や「動機付け」に大きな疑問を抱くに至っている。何と表現すべきか、傷口を「埋める・ふさぐ」ような(癒やすではなく)感覚が湧いてやまない。私はもともと出不精な性格だが、それを差し引いても余りある。
そんな折、妻から連絡が入る。飲み会に行って来るので娘を実家で拾って帰って欲しいとのこと。先輩に捕まり飲んでるが、場の空気を白けさせたくない、と彼女は釈明した。私が了承した旨を伝えると、妻は突然の依頼をひたすら詫びた。 本当にごめん、本当にごめん、と。
先輩に、そして、ましてや夫にまで、しきりに気を遣いながらも、彼女は何を「埋めよう」としているのだろう。何に囚われて動かされているのだろうか。彼女を取り巻く人間関係、習慣、嫌われたくない気持ち、義理や義務感、深さの見えない友情? そういった彼女の意思とは異なるベクトルに流されている気がしている。望まずとも自分で組み上げてしまった塀に囲われ縛られ窮屈になっているようだ。憤りや呆れよりも、なんだか不憫に思えてならない。
ささ、クダラナイことは飲んで早く忘れよう。

膝上限界突破

先日、会社帰りに友人と一緒になり帰路を共にした。ここ最近、読書に熱が高まってきた友人が言うには「読んだ本の内容が全然頭に残っていない」ことに対して、ふとした「もったいなさ」を感じているとのこと(しかも、賢ぶって購入した新書においてその傾向が顕著だ、というプチ自虐ネタ付きである)。
なるほどその苦悶は一理ある。ウェブ閲覧で時間だけを費やすならともかく、身銭をはたいて購入した書籍だ。その内容が思い出せず、また身になっていない、投資への効果が実感できないことで疑問を抱き不安になるのは当然のことだろう。
しかし、私はそれでも良いと思えるようになっている。場当たり的な採用基準で購入した書籍が、一度頭に注がれたものの例えそれが流れていったとしても、それはそれで良いと考えている。全てを必ずしも「ストック」させることが効果ではない、ただ「フロー」させるだけでも、(実感は湧かないかも知れないが)効果がないとは言い切れないはずだ。関心のあるテーマなら類似したテーマの書籍によって、ただフローしただけの内容は思い出されてストックに変わる。投資への効果を期待せずにたれ流していれば必要な時にはフックされる、必要なければそのままたれ流し意識せずとも淘汰されていくだけの話だ。そのようにしておそらく自身にとって必要な、もしくは関心のある内容だけが何度か思い起こされ、さらに「どこに書いてたか思い出せない」状態にまでなって自身の思考回路に根付く。そんな風に考えている。
と偉そうに述べてみるものの、私自身、「どこに書いてたか思い出せない」ことに対して最近非常にもどかしさを感じている。やはり読後録を残して、頭からは「思い出せるきっかけ」だけを残して、エッセンスと詳細が思い出せる道筋は別に残しておきたいという思いが強い。
既に読了したものの読後録を残していない書籍が、読後録を残した書籍の数を上回ってきた。本棚に収められていない書籍が、読後録に記録されることもなく、自宅の床に数本の立派な「塔」を形成している。そして幾つかの塔は、臨界点を突破し崩壊・再形成を繰り返している、どうやら書籍を単純に積み上げる場合、「膝」がその高さの臨界点のようである。本もスカートも、なんとか「膝上限界」がまで頑張って欲しいも..失礼。
感想やコメントはともかく後回しでも、せめて同種のテーマの書籍を読んだことを思い出す、そのイニシャチブだけでも掴めるように、タイトルだけでも記録しておかなくてはいけないと感じている。あー正月の暇つぶしができた。

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