パパスキル

子供がいると、父親としてあるフィールドでスキルを披露する場面に遭遇する。いや、この時代に「父親らしい」とか「母親らしい」といった「らしさ」のカテゴリ分けは、ナンセンスなのかも知れない。ただ、一部の女性が「バックでの片手ハンドル駐車」に男らしさを感じる(らしい)ように、特定の能力が父親らしいと思われるようなものもある。
例えばキャンプに行ったとしよう。火起し、タープの設置、ダイナミックなオトコの料理からロープの結び方まで、キャンプ場はパパスキルのサーカス場と呼ばれている。(しかし「キャンプに行こう」と話題に上ったとしても、「あぁサーカスね、サーカスに行くんだね」などと返事してはならない。キャンプでもサーカスでもなく「まず病院に行って来い」と罵声を浴びることになる。)
専ら「インドア」な私は、キャンプなどもっての他であり(火起しだけは得意だ)、発揮できる分野と言えばDIYぐらいかも知れない。しかも、賃貸でマンション暮らしなので、日曜大工と呼べるものには挑戦できない。せいぜい、ドライバーや六角レンチで自転車を修理するくらいだろうか。
先日娘の自転車(コマなし問題で話題となった自転車だ)に駐車用の「両足スタンド」を設置する要望が持ち上がった。妻はてっきり「自転車屋で装着してもらうもの」と思い込んでいたらしいのだが、私が娘と向かった先はホームセンター。もちろん、両足スタンドだけ購入して、自分で装着するためだ。自転車の大きさ(16インチ)を入念に確認。購入予定の両足スタンドには「必要工具:15mmレンチ」とある。これも大丈夫。我が家には15mmのソケットレンチがある。
さていざ装着しようとして困難にぶち当たる。確かに最も外側を固定しているナットは15mmなのだが、さらに奥に、荷物乗せを挟み込むように17mmナットが固定されている。普通の自転車であれば、15mmナットを外すだけで装着できるようなのだが、なんせ幼児用自転車にディスクブレーキが付いているものだから、少々「特殊」な構造なのかも知れない。両足スタンドを取り付けるには、17mmナットがある箇所から取り外して、荷物乗せを合せて外側から一度に15mmナットで固定しなくてはならない。しかも、17mmナットはネジの随分奥に固定されているため、手持ちのソケットの深さでは、ネジが高くてナットまで届かないのだ。おいー、17mmの「ディープ」ソケットなんてないぜ。
娘は怪訝そうな面持ちで「できた?」などと聞いてくる。
妻は「初めから自転車屋に持っていけよ」と言いたそうだ、すごく言いたそうだ。
少々特殊な造りになっている幼児用自転車にも関わらず、15mmレンチだけで完結すると両足スタンドに記載の説明を信じたばっかりに作業を中断せざるを得ない。「こら無理、観念した。行ってくる」そう聞いた妻の顔が呆れながらも、少し光が差したように見える。
「いや、自転車屋じゃない、ホームセンターや。17mmのディープソケットか、モンキーレンチのような汎用サイズのレンチを買ってくる!」妻の呆れ顔が級数的に加速する。バカだ、このダンナはバカだ。とまで言わんばかりの呆れ顔だ。やっとのことで発した言葉は力なく「いや、レンチじゃなくて」だってさ。いやしかし、こちらとしても引き下がる訳にいかない。
日暮れてやっと完成した両足スタンド。妻の目はいささか冷ややかだったが、レンチを回して自転車パーツを外して再度組み立てる時、娘の顔は「すげぇ」と言わんばかりに目を輝かせてくれるのだ。コンピュータをいくら巧みに操っても、娘が感心するのはあくまでコンピュータに対してなのだが、こうしてモノを作る作業をチラっとでも見せると子供心には響くのかも知れない。最近、男の子がなりたい職業に「大工」が結構長いことランクインしているのも、なんとなく分かるような気がしてきた。

右脳左脳とか文系理系とか

先日友人がおもしろいと紹介してくれた右脳と左脳のテスト(The Right Brain vs Left Brain)。
友人が紹介しておられた二次情報なうえに、紹介されてから随分日数が経っているため、一瞬投稿を迷ったのだが、私なりの主題をまとめるのに時間を要したとあらば許してもらえるだろうと勝手に解釈し、投稿することにする。
壊滅的とも評すべき私の英語力が間違えてなければ、リンク先の絵が右回りに見える私は「比較的右脳を使っている」らしい(全く逆の意味で訳していないか非常に心配)。もちろん、右脳左脳は、それぞれが役割を持っていて両方が相互補完的に働くものだから、右脳人間だとか左脳人間だとかラベリングするつもりは毛頭ない。しかし、私自信「どっちかというと右脳チック」なキャラクターへの憧れに似た願望があったため、正直どことなくうれしい。「ほら、そら算数も理科もできんわさ」 まーなんてネガティブな嬉しさなのだろう。
右脳・左脳という構図と、(よく互いのテリトリ間で摩擦を目にする)文系・理系という構図は、私の中では非常に相通じる構図を持っている。一方が推進力を持つエンジンならば、もう一方は舵を取るハンドル。一方が目的地なら、もう一方は到達ルート。余計にわからなくなりそうだ。一方が「ビジョン」なら、他方はそれを体現する「道具」だと。えいもっと強引に言ってしまえば「目的」に対する「手段」という構図だ。
昔話になってしまうのだが、私が無理に無理をして高校で理系クラスを受講していたことを思い出す。ずっと算数数学、理科化学は大嫌いだった私が理系という道を(一瞬たりであろうとも)選らんだのは、それはただ私が大のMっ気の持ち主だったという理由だけに留まらない。それは、中学生の時にテレビで(確かNHK)見たルポだ。番組もそのテーマも忘れてしまったのだが、今でもひとつだけ覚えているのが、「これからの社会は理系のできる文系を必要としている」という結論だった。もちろん中学生の時分に、「自ら表出力を備えたビジョナリスト」という解釈ができた訳ではない。しかし、目的地を思い描くだけでは到達できないという片輪に属する危機感と、同時に、ちょうどその頃コンピュータを使い始め、これで飯を食うと誓ったばかりのだったのに、きっと「これだけでは飯は食えん」と、もう片輪に属する危機感を併せ呑むように感じ取った。 と今だから(大そうに美化して)思い返すことができる。
ある書籍で出会った「『良い』モノを作っていれば本当に『善い』のか」といった衝撃的な問題提起や、極端な実際の例だと「ここは絵じゃなくてFlashにしてください」なんて話や、「これが会社のビジョンです」なんて話も、計測可能で結果が分かりやすい「道具」にばかり意識が注がれているような気がして、なんだかなー、と思ってしまうのである。 過程も大事。と見せかけの優しさを見せておいて、結局そうは言っても最終的には結果が全て。なんて言われると参ってしまう。別に誰に言われたわけじゃないけど。

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