4月
2009
読めない名前
娘が小学校に入学して、クラス名簿の一覧を拝見した。思っていたより奇抜な名前が少なくて、何故だか分からないが「ホッ」としたのは、つい2,3週間程前のことだ。
mixiニュース経由で、Business Media 誠の記事「ネーミングで、とりかえしのつかない一歩を踏み出さないために」を拝読。記事中に、あるサイトの記事の引用(そのサイトでは、さらにとある研修会の講演内容から抜粋されている)が記述されている。
凝った名前を付ける親は児童虐待しやすい
これ、誤解を招きやすい表現だけど、ある気がする。表っ面だけ「子供のためを思って」とか言うんだけど、親の方も考えが子供みたいに浅くって、将来社会的に発生するであろうデメリットまで考えが及ばない。ことに、考えが浅いだけ、というのが逆にかえって始末に悪い。
それこそ悪魔ちゃんまで針が振りきっちゃえば少し考えれば誰でも判る話なのだが(それでも当時、悪魔ちゃんの名付け親は反論していたように記憶している。自身の狭いロジックを信じきっているのだから、説得も大変である)。
結婚して子供が生まれるまでの間で、一番最初に乗り越える重要な「社会的」イベントは結婚式。次に訪れるのは子供の命名だと思う。
二人のことだから、最大の決定権が二人にありながら、二人を社会的に取り巻く人々に大きなインパクトを与えるからだ。再度、トラバ先の記事から引用したい。
結婚すること。子どもが生まれること。それは、自分らしい暮らしを延長することではない。むしろ、社会を受け入れること。客観的に言えば自分の暮らしの中に、他人を入れること。「自分らしく生きる」ことを、少しあきらめることでもある。
ほんとその通りだ、と思って頷くこと幾度。私としては、「『自分らしく生きること』を、少しあきらめること」というより、自分らしさばかりを追い求めて他人との関係を突っぱねたりせず、(たとえ、ろくでもなくとも)この社会の中で生きていること(生きていくしかないこと)をできるだけ前向きに捉えていきたいと思っている。
世阿弥の「風姿花伝」で述べられている「序破急」という言葉を根底とした、「守破離」という教えがある。初めは、型を忠実になぞる。次に、型の中で自分なりの工夫や応用を試行錯誤する。その過程を経た後に、初めて自分なりの新しい型を生み出すことができる、と。
人と同じじゃ嫌。もちろんそれも結構だが、「個性の多様化」という殻に篭り、ただ嫌だからとわめくだけでは、ただのイタイ子であり、結局、個性の確立へは遠回りにならないだろうか。随分逸れたが、自分の子の名前にアニメキャラクターの読みを充てて「他にはない個性」などとわめいている親がいるのだとしたら、それは大間違いだ、まさしく「没個性」に陥りかねない思うのだがいかがだろうか。
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