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	<title>ohbatch.net Blog &#187; 雑感</title>
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		<title>IT CIRCUS 2010 IN OSAKA に参加してきた</title>
		<link>http://www.ohbatch.net/blog/2010/02/19/864/</link>
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		<pubDate>Thu, 18 Feb 2010 15:57:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[2月17日に大阪で行われた「IT CIRCUS 2010 IN OSAKA」に参加してきた。
講演の詳細は上記リンク先から参照いただくとして、お話を伺って考えたことや感じたことを、少々長くなるが書き留める。
今回のセミナ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>2月17日に大阪で行われた「<a href="http://www.it-circus.com/">IT CIRCUS 2010 IN OSAKA</a>」に参加してきた。</p>
<p>講演の詳細は上記リンク先から参照いただくとして、お話を伺って考えたことや感じたことを、少々長くなるが書き留める。</p>
<p>今回のセミナーを通じて何より一番強く感じたのは「なんか、ウェブ制作現場の潮流って、ソフトウェア開発の歴史を辿っているような気がする」ということ。せっかくなので、ソフトウェア開発現場が歩んできた道をウェブ制作現場へ照らし合わせてみたうえで、「今後ウェブデザイナーとして求められるもの」を考えてみたい。</p>
<p>ウェブ制作の歴史は、いわゆる「ウェブ制作会社」が会社として成り立つようになってから、まーせーぜー10年程度だ。<br />
少し前までは、制作担当は、なんでも「ウェブデザイナー」と呼ばれる職種にひとくくりにされ、分業のスタイルも整ってはいなかったが、最近ようやく、コーダーやディレクターなどと呼ばれる、いわゆるシステム開発における、プログラマーやプロジェクトマネージャーに相当する職種が浸透してきている。</p>
<p>実際の制作スタイルを見てみると、森川さんの発表内容にもあったとおりウェブの「標準化」と呼ばれる統一された仕様が求められるようになって、5年ほどたとうか。つまり、以前までは「一人のスーパープレイヤー」さえ居れば金になる時代（「一発芸」と表現されていたもの）だった。そういったスタイルが、徐々に苦しくなってくるのは、制作に必要な要素が徐々に体系化されてきたことでもある。</p>
<p>つまり、仕様が標準化されれば、分業ができる。分業ができれば、個々が専門化する。個々が専門化してくると、それぞれ職種に名前が付く（私達はおそらくイマココ）。という流れの中にあることを押さえておきたい。</p>
<p>んで、この流れにのり、専門家の技量水準評価のために、品質評価リストや公的資格が生まれたりする。そうなれば、顧客の要求も「○○を満たせる人材」「○○の条件をクリアするサイト」といったスキルレベルを明確に要求してくるようになる（スキル・品質の数値化、定量化）。<br />
さらに、分業化が進むと、プロセス（いわゆる仕事の進め方）を標準化しよう、統一しようという話題が持ち上がる。一人のスーパープレイヤーの仕事では発生しえなかった、コミュニケーション・ロスが、分業では当然ボトルネックとなってくる。プロセスが標準化されてくると、それぞれ個々のタスクでの「成果物」もおのずと決まってくる。そうして、ひとまずは、案件の計画から制作完了・リリースまでの一連のタスクリストが、制作者間で共通認識として出来上がる。このあたりのプロセス体系は、PMBOKあたりが標準になっていてウェブディレクションに取り入れているところも多い。</p>
<p>ただし、従来のシステム開発で使われるウォーターフォール・モデルではない。既に「市場の変化のスピードの早さ」をまさにフロントエンドで感じざるをえないウェブ制作においては、PDCAサイクルを工程に組み込んだ、スパイラル・モデルとして制作工程ができつつある。（ISO13407のHCDプロセスもそう。）</p>
<p>別に取り立てて特別に言うことではないし、知っている人からすれば「当たり前」のことなのだろうが、近年のソフトウェア開発の歴史は「市場の変化のスピードの早さ」との闘いである、と言っても過言じゃない。ウェブ制作現場においても、きっと同じ道を歩むことになる。</p>
<p>「市場の変化のスピードの早さ」とは、即ち「仕様変更」の回数が増え頻繁になることである。顧客自身が市場変化を捉えきれず、工程途中で仕様が変わることがどうしても増えてくる。「前工程において、合意を得たものだ」と強く断れば良い？<br />
ふふふ、そうも言えないケースだってあるんだから。もう、何なら「あらゆるものは、フィックスなんてしない」という考えでも良いくらいである。だってそのためのサイクルプロセスなのだから。</p>
<p>では、具体的にウェブ制作として、この静かに忍び寄る避けられない脅威に対してどう身を守るべきか。<br />
他にもあるかも知れないが、私が思うのは「制作物の構造化」である。テンプレート、コンポーネント、ライブラリ、フレームワーク．．．要は、呼び方はナンだって構わない。つまり、再利用できるものとそうでないものを可能な限り切り分けて、「変更が発生した場合の作業量を最小にする」ことに留意し、またその努力をすべきである、ということである。</p>
<p>実は、プログラム言語において、過去の偉人達が作り上げてきた、関数、構造体、オブジェクト指向などの概念は全て、作ったものを「再利用」しやすく「変更発生時の影響を最小限に食い止める（変更作業量を最小にする）」ためのものである。<br />
同じ話で、スクリプト言語にOOPが必要なのはもちろん、グラフィックソフトでレイヤーが分かれているのも思想は同じ、てかそもそも、HTMLとCSSが分離して策定されたのも、想定される変更頻度が異なる「テキスト」と「スタイル」を可能な限り分離することで、修正時のソースレベルにおけるインパクトを小さくするためのものである。</p>
<p>積極的にフレームワークやライブラリなどを利用するとともに、何らかの設計の際に、少しこんなことを意識することをお勧めしたい。<br />
「今、私が作っているモノは、絶対に後になって変わる。もしくは（私でない）誰かが変える。その時のために何をすべきか。」という意識がカギである。</p>
<p><a href="http://www.it-circus.com/">IT CIRCUS 2010 IN OSAKA</a></p>
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		<title>うちのウチ</title>
		<link>http://www.ohbatch.net/blog/2009/07/21/741/</link>
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		<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 10:48:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[うちの娘（7歳）が「あやちゃんな、これから自分のこと『あやちゃん』て言うのやめるわ、これから『あたし』って言うねん」と言い出した。小学校・学童に行くようになってからしてしばらくしてからなので、５、６月の頃だ。
まーなんと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>うちの娘（7歳）が「あやちゃんな、これから自分のこと『あやちゃん』て言うのやめるわ、これから『あたし』って言うねん」と言い出した。小学校・学童に行くようになってからしてしばらくしてからなので、５、６月の頃だ。<br />
まーなんとなく想像は付いたのだが、一応「なんでなん？」と聞いてみると、やはり「なんか、恥ずかしいもん」とのこと。今までとは違う社会に、彼女なりに馴染もうと努力しているのだろう。</p>
<p>トラバ先のネタフルさんのサイトで「<a href="http://netafull.net/diary/031439.html">女の子たちが自分のことを「ウチ」と呼ぶ話【まとめ】</a>」という記事が掲示されていた。興味深く拝読。<br />
てっきり関西だけかと思っていたのだが、記事中で引用しておられるとおり、</p>
<blockquote><p>「全国方言辞典」（東京堂出版）で調べると、何と「うち」の使用地域に西日本以外に「千葉県東総地方」とある。ここが首都圏の「うち」の発信源なのだろうか。<br />
<a href="http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20040804sw61.htm">「自分のこと「うち」…関東でなぜ？」</a></p></blockquote>
<p>とあった。てっきり記事の通りアニメを含め、テレビで関西弁が広まった結果だと思い込んでいた。しかし結局、結論としては「複合要因でしょう」という風にしか着地できないのも深く納得。</p>
<p>幼児の場合、生活圏が狭いため、その地域由来の方言が残りやすいかも知れない。幼児向けテレビアニメの影響であれば、幼児であっても幼稚園・保育園を介して新しい言葉が一気に広がることもあるだろう。<br />
ただし、小・中学生ぐらいまではテレビの影響が中心だろうが、高校生以上になると主に交流する友人達の出身地の幅が一気に広くなり、また、視聴するテレビ番組の種類も増えるため、自身が話す方言が何に影響されたのか、徐々に特定が難しくなってくる。自分自身、大阪生まれの大阪在住だが、神戸や京都などの固有のイントネーションが入り交じってることに気付くことがある。</p>
<p>ちなみに娘に聞いてみると「ウチって言う子おるよ、10人くらい」とのこと。</p>
<p>きっと、今まで聞いたことのない方言に出会ってから、（大人が違和感を抱くようになるまで）広まる様子は、イノベーションの普及過程モデルに近いような構図を描くのだろうな。あまりに接する機会少ないと広まらず、周りで何人から（もしくはテレビでちょくちょく）耳にするようになったあたりで「人とは違う格好良さ」を求めたアーリーアダプターが生まれてくる気がする。これは面白そうだ。</p>
<p>しかし実は、twitterでのこの即興的な意見交換から、エントリを起こされるまでの過程が、何よりも興味深かったりする。</p>
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		<title>ねじけぬ むつび</title>
		<link>http://www.ohbatch.net/blog/2009/05/11/687/</link>
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		<pubDate>Mon, 11 May 2009 09:28:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[久々に実家に帰省すると玄関に到着するなり、実家のペット（犬・メス）は、けたたましい勢いでフローリングを「カリカリカリッ・・・」と鳴らしながらこちらに走ってくる。
荷物を下ろして一息つく間も与えられず、10分ほど彼女（犬・ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>久々に実家に帰省すると玄関に到着するなり、実家のペット（犬・メス）は、けたたましい勢いでフローリングを「カリカリカリッ・・・」と鳴らしながらこちらに走ってくる。</p>
<p>荷物を下ろして一息つく間も与えられず、10分ほど彼女（犬・メス）は、跳びはねたり、潜り込み絡んだり、顔を舐めたりしてじゃれてくる。彼女（犬・メス）が小さかった時は、あまりの興奮で、よくお漏らしまでしたものだった。</p>
<p>はてさて「コイツは何をここまで嬉しがるのだろう」と少しねじけた疑問が沸いた。というのが今回のお題。</p>
<p><span id="more-687"></span><br />
彼女（犬・メス）にとって、私はそこで一緒に暮らす人間でも、ましてや家の主でもない。せいぜい１，２ヶ月に一度帰省する程度だ。それなのに、マンガの描写のような速度で尻尾を振りながら、一体何を喜んでいるのだろう。<br />
寄ってくる彼女（犬・メス）を「仕方ないなぁ」なんて言いながら、まんざらでもない様子で撫でてあげていた自分に気付く(*1)。</p>
<p>そういえば、生まれたての乳児は、その小さな身体に「自意識」や「感情」というものを宿す以前から、人の顔を見ると「微笑む」ことがあるらしい。これは、「新生児微笑」と呼ばれ、世話をしてくれるであろう相手から愛情を引き出し、自分に向けさせるためのようだ。<br />
本人は意識しないまでも、あまりにも弱く小さなその生命を、愛され守ってもらうために、本能的に組み込まれたメカニズムらしい(*2)。</p>
<p>子供にとっては、その後も一定の年齢まで親のことがまさに「創造主」みたく神に近いような存在であり、私たちに絶対的な信頼と好意でもって接してきてくれる。<br />
悲しいことではあるが、例え自身の子供を虐待してしまうような（「人間じゃない」とさえ形容できそうな）両親であっても、彼・彼女らにとっては、それでも親は絶対的存在であり、一番大事な存在なのだ(*3)（非道にも我が身を虐げる両親にさえも、微笑みを向ける新生児を、勝手に想像しては、勝手に胸が痛んで、勝手にやりきれなくなってしまう）。</p>
<p>少し話が逸れてしまったが、幼かった我が子もそうだったし、実家で毎回尻尾を振りフローリングで足を滑らせながらも走ってくる彼女（犬・メス）もそうだが、<br />
「直接的・明示的に私に請うことなく、私から愛情を向けてもらうこと」<br />
に成功しているのだ。ただ自分から親しみを発するだけで。</p>
<p>昔何かで読んだのだが、とある実験で、相手（サクラ）から好意を持たれていることを知らされた被験者は、その相手（サクラ）に親しみを覚え、好意的に捉える傾向が強い、という結果が見られたらしい。</p>
<p>人間関係をつなぐ糸は、今やまるで薄くなりすぎた紙テープのようで、誰かの吐く溜め息ですら切れてしまいそうだ。<br />
見返りを求めず相手に親しくしてみよう、と言えば、少々暑苦しくて好きではない表現だが、子供の笑顔や子犬の尻尾などの無邪気な好意を見ていて、ふとそんなことを思う。</p>
<p>*1 実家の子犬<br />
後で知ったのだが彼女（犬・メス）は、身内だけでなく、郵便配達人や散歩中の近所の見知らぬ人に対しても、私と同じように尻尾を振りながら「誰にでも付いて行く」らしい。orz</p>
<p>*2 新生児微笑<br />
生理的微笑とも呼ばれる。関係ないが「<a href="http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1422063.html" target="_blank">生後１ヶ月で笑顔をつくれるわが息子＝やっぱり天才？ &#8211; 教えて！goo</a>」にある質問が微笑まし過ぎる。</p>
<p>*3 オカアサンが一番<br />
関連エントリ：<a href="http://www.ohbatch.net/blog/2007/05/28/266/">オカアサンがイチバンデース</a><br />
（ちなみに、この絶対的な両親像が崩れて始めるのが、いわゆる「反抗期」ではないかと勝手に考えている）</p>
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		<title>読めない名前</title>
		<link>http://www.ohbatch.net/blog/2009/04/25/381/</link>
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		<pubDate>Sat, 25 Apr 2009 02:54:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[娘が小学校に入学して、クラス名簿の一覧を拝見した。思っていたより奇抜な名前が少なくて、何故だか分からないが「ホッ」としたのは、つい２，３週間程前のことだ。
mixiニュース経由で、Business Media 誠の記事「 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>娘が小学校に入学して、クラス名簿の一覧を拝見した。思っていたより奇抜な名前が少なくて、何故だか分からないが「ホッ」としたのは、つい２，３週間程前のことだ。</p>
<p>mixiニュース経由で、<a href="http://bizmakoto.jp/" target="_blank">Business Media 誠</a>の記事「<a href="http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0904/24/news032.html" target="_blank">ネーミングで、とりかえしのつかない一歩を踏み出さないために</a>」を拝読。記事中に、あるサイトの記事の引用（そのサイトでは、さらにとある研修会の講演内容から抜粋されている）が記述されている。</p>
<blockquote><p>凝った名前を付ける親は児童虐待しやすい</p></blockquote>
<p><span id="more-381"></span>これ、誤解を招きやすい表現だけど、ある気がする。表っ面だけ「子供のためを思って」とか言うんだけど、親の方も考えが子供みたいに浅くって、将来社会的に発生するであろうデメリットまで考えが及ばない。ことに、考えが浅いだけ、というのが逆にかえって始末に悪い。</p>
<p>それこそ悪魔ちゃんまで針が振りきっちゃえば少し考えれば誰でも判る話なのだが（それでも当時、悪魔ちゃんの名付け親は反論していたように記憶している。自身の狭いロジックを信じきっているのだから、説得も大変である）。</p>
<p>結婚して子供が生まれるまでの間で、一番最初に乗り越える重要な「社会的」イベントは結婚式。次に訪れるのは子供の命名だと思う。</p>
<p>二人のことだから、最大の決定権が二人にありながら、二人を社会的に取り巻く人々に大きなインパクトを与えるからだ。再度、トラバ先の記事から引用したい。</p>
<blockquote><p>結婚すること。子どもが生まれること。それは、自分らしい暮らしを延長することではない。むしろ、社会を受け入れること。客観的に言えば自分の暮らしの中に、他人を入れること。「自分らしく生きる」ことを、少しあきらめることでもある。</p></blockquote>
<p>ほんとその通りだ、と思って頷くこと幾度。私としては、「『自分らしく生きること』を、少しあきらめること」というより、自分らしさばかりを追い求めて他人との関係を突っぱねたりせず、（たとえ、ろくでもなくとも）この社会の中で生きていること（生きていくしかないこと）をできるだけ前向きに捉えていきたいと思っている。</p>
<p><span class="_LSUCS">世阿弥の「風姿花伝」で述べられている「</span>序破急」という言葉を根底とした、「守破離」という教えがある。初めは、型を忠実になぞる。次に、型の中で自分なりの工夫や応用を試行錯誤する。その過程を経た後に、初めて自分なりの新しい型を生み出すことができる、と。</p>
<p>人と同じじゃ嫌。もちろんそれも結構だが、「個性の多様化」という殻に篭り、ただ嫌だからとわめくだけでは、ただのイタイ子であり、結局、個性の確立へは遠回りにならないだろうか。随分逸れたが、自分の子の名前にアニメキャラクターの読みを充てて「他にはない個性」などとわめいている親がいるのだとしたら、それは大間違いだ、まさしく「没個性」に陥りかねない思うのだがいかがだろうか。</p>
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		<title>リセット！</title>
		<link>http://www.ohbatch.net/blog/2008/11/05/322/</link>
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		<pubDate>Tue, 04 Nov 2008 15:01:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[リセットしたい。という衝動や傾向は誰にでも見受けられるものだろう。
「全部チャラにしないと打破できない」という妄想は、不確実性を残したまま「リセット」を促す誘惑に負けてしまう。
自分のことを誰も知らない土地へ旅をする。
 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>リセットしたい。という衝動や傾向は誰にでも見受けられるものだろう。<br />
「全部チャラにしないと打破できない」という妄想は、不確実性を残したまま「リセット」を促す誘惑に負けてしまう。<br />
自分のことを誰も知らない土地へ旅をする。<br />
宝くじが大当たりさえすれば人生変わると思いを馳せる。<br />
未経験の職種に転職して活躍する夢を見る。<br />
要るかも知れないものも含め取りあえず全部捨ててみる。<br />
拡張できずにシステムを全面公開する。<br />
議会の解散を訴える。<br />
ＣＩやボードを一新する。<br />
駆け落ちとかしてみる。<br />
あるいは挙げ句の果てに自らその命を絶つ。<br />
リセットは時に、敵前逃亡といったネガティブに捉えられる。現状突破の意志があるにも関わらず、その閉塞感の発生源に目を向けていない（あるいは背けている）という印象を持ってしまいがちであるからだ。<br />
しかし、リセットが功を奏するケースも大いに存在する。なら、結果論として、リセットやら敵前逃亡呼ばわりされることとの違いは何か。<br />
人間が持つリスクテイキングにおけるバイアスを踏まえているか。正のエネルギー、つまり卑屈にならず攻めの姿勢であることを自覚しているか。リセットしないモノを選り分け確保しているか。こんなあたりだろうか。<br />
気が向いたら詳しく掘り起こしてみたい。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>リアクション</title>
		<link>http://www.ohbatch.net/blog/2008/08/19/317/</link>
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		<pubDate>Tue, 19 Aug 2008 14:38:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[娘が一人で風呂に入るようになった。何でも一人でできるようになっては「もうお姉さんだなぁ」と褒めてもらうことを何よりも楽しい様子だ。
いつもより少々長い間風呂に入っているなぁ、と思っていたら、なんとまぁ彼女は血まみれで浴室 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>娘が一人で風呂に入るようになった。何でも一人でできるようになっては「もうお姉さんだなぁ」と褒めてもらうことを何よりも楽しい様子だ。<br />
いつもより少々長い間風呂に入っているなぁ、と思っていたら、なんとまぁ彼女は血まみれで浴室から出てきた。そして、堰を切ったようにわんわんと泣き出す始末。<br />
どうやら、浴室の一角にしまってあったカミソリを興味本位でイヂってしまったようだ。幸い、小指の先の皮を切ってしまったに過ぎない。風呂上がりで血行が促進（？）されている状態で、少々色の濃い血液がトクトクと小指から流れているが、10分程止血してやると、絆創膏で十分処置できる程までに血は止まった。<br />
今まで、血が出て止まらないような大きなけがをしたことがなかった娘は、たいそう驚いた様子だ。両親に発見されてから一気に泣き出したことから、浴室で小指の止まらない血を見つめて過ごした時間は、本人にとって「この世の終わり」かと思えるような恐ろしい時間だったのかも知れない。<br />
きっとこのテの体験は、大人になっても記憶に残りやすい類の、大げさに言えばトラウマと呼べるような体験になるのだろうか。<br />
「さすがに止血した方が良さそう」だけれども、「大した傷でない」ことが把握できた時、私は第一声として、娘に何と声をかけようか迷った。うん結構迷った。<br />
普段あまり耳にすることがないような泣き声をあげ、手首まで血が流れてきているその姿に、確かに私も最初は驚いた。浴室で親に見つかるまでの（おそらく）数分間に娘が感じたであろう恐怖は想像して余りある（きっと「これって死ぬんじゃないか」とパニックになったはずだ）。私自身に動揺がなかったと言えばウソになる。<br />
ここで沸いた「迷い」は、きっと「このシチュエーションでのリアクションが、今後の娘の人生を大きく左右する」ような気が一瞬したからだろう。<br />
「おまえはハモリパートか」と思えるような、普段より3音上げのトーンで「あららー、大変や大変や、よしよしもう大丈夫、怖かったなー」と騒ぐこともできた。しかし、そのリアクションは既に第一発見者の妻がとっている。<br />
結局は、おそらく私の両親が言ったであろうように「あー大丈夫、大したことない」と動揺を隠して、あたかも全てお見通しだと言わんばかりの態度（これも私の両親がそうしたはずの態度）で接することとなった。<br />
「迷う」とは言ったものの、それ自体は結果論であり、とっさのリアクションをそうそう計算するまでの余裕もなかった。<br />
子供が起こした何かしらの行動、特にその行動が強く自身の印象に残るようなものであった場合、それに対する親のリアクションは子供の人生にに大きな影響を与えるものだと思う。漠然と人生と表した中には、２つ、学びとしての側面と、性格や価値観としての側面を含めている。<br />
親から一方的に「あれやれ、これやれ、あれやめ、これやめ」言うよりも、本人が起こしたアクションを受けてリアクションしてあげる方が、親からのメッセージは何倍も子供のハラに落ちるはずだ。<br />
いや、きっと子供に限った話じゃない。人は何かしらのリアクションを得ることで物事を学んでいくのだろう。頭の中（内面）で屈強の城を築くだけでもなく、外界から一方的に「指導」が注入されるだけでもない。学びとは、あくまでその起点は本人からのアクションであり、それに対する外的環境からのフィードバックによって初めて達成し得るものではないだろうか。という発見に近い仮説。<br />
もう一つの発見は、自分で驚くほど、そのリアクションが自分の両親と似ていることだ（おそらく自分の子供を授かると誰しも感じることなのだろうと思う）。一瞬悩んだリアクションでさえ、いや、とっさに求められたリアクションだからこそ、自分の親が使うであろうフレーズを驚くほどそっくりに発することになる。また同時に、時としてそのリアクションによって子供が感じるであろう心情をも（かつての子供の自分がそうであったように）十分すぎるほど理解できたりするのである。<br />
子供がある程度大きくなると、手がかからない分、感動や変化が薄くなりがちなのだが、大きくなったらなったで、これまた興味深い。</p>
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		<title>空気を読むのは難しい</title>
		<link>http://www.ohbatch.net/blog/2008/07/08/316/</link>
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		<pubDate>Mon, 07 Jul 2008 15:47:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[このあいだ、キャップ帽が欲しくて服飾店を物色していたときのこと。
まるでメジャーリーグのチーム帽かと思うようなイニシャルをあしらったユニークなデザインのキャップ帽を見つけた。
「KY」
なるほど、空気読めってか。
ネタと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>このあいだ、キャップ帽が欲しくて服飾店を物色していたときのこと。<br />
まるでメジャーリーグのチーム帽かと思うようなイニシャルをあしらったユニークなデザインのキャップ帽を見つけた。<br />
「KY」<br />
なるほど、空気読めってか。<br />
ネタとしては微笑ましいのだが、これを被って街中を闊歩する姿は少々おぞましい。<br />
ノンバーバルとはいえ、そんなメッセージを街ん中で不特定多数へ発することのおぞましさ。これを発信することで、一体周囲にどんな配慮を要求（もしくは強要）してしまっているのだろうか。そう考えると、このワンシーンは軽くホラーに近い。<br />
空気読め、なんて言葉が流行しているが。何とも考えさせられるものがある。これが「私の気持ちも察して」という意味であれば杞憂に過ぎない（その意味であったとしても、そんなことを言われるシーンにあまり遭遇したくないが）。「空気読め」には、どうも「マイノリティは黙ってろ」という含意が多少なりともある気がしてならない。つまり空気とは、当然「場の」空気のことを指しているからだ。<br />
勤める会社でウナギの産地偽装を見つけて指摘した際、おエライさんが一言「おい、おまえ空気読め」なんて凄まれたら、替えのパンツは何枚あっても足らない。<br />
例えるなら、そんな怖さ。<br />
個人主義だの、自己責任だの、多様な価値観を是とする思想などが押し寄せてくる中で、一見、古めかしくも日本らしい「右に倣え」という意味を含んだ言葉が流行することは、もしかすると、そうした圧力への反抗や、原点回帰への願望なのだろうか。と思うと深読みし過ぎかも知れない<br />
ちなみに、考えてみるに、これに相反する流行語は「カラスの勝手でしょ」である。古い、しかし、我ながら深いわ！<br />
空気読めと発信できるということは、発信者自信が空気を読めていることを前提とし、また、その場において、既に暗黙のままに多数意見が形成されていることを前提とする。<br />
これは相当なリスクを抱えたままバクチを張ることになる。ヘタに仕掛けようものなら「お前が（空気を）読めや」と返り討ちにあうのだから。<br />
あまり大した内容でなかったのだが、要は「空気を読む」のも難しいが、「空気読め」と言うのはもっと難しい。という話でした。ごきげんよう。</p>
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		<title>どうやって「やりたいこと」を見つけるか</title>
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		<pubDate>Wed, 11 Jun 2008 15:15:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[前回、前々回から引き続いて、もう「そして伝説へ」と副題をつけたい衝動を抑えての３回目。
どうやって「やりたいこと」を見つけるのか。
ストレートな模範解答を挙げるなら、好奇心をもって様々なことへトライすべし、となるのだろう [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post-116.html">前回</a>、<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post-113.html">前々回</a>から引き続いて、もう「そして伝説へ」と副題をつけたい衝動を抑えての３回目。<br />
どうやって「やりたいこと」を見つけるのか。<br />
ストレートな模範解答を挙げるなら、好奇心をもって様々なことへトライすべし、となるのだろう。しかし、正解なのだろうがあまりに不親切だ。少なくとも私は、そんな表現では胆に落ちてこない。（そして「飛躍しすぎやしないか、前回までの２回の前振りは何だったのか」という話になる）<br />
SNS内で友人、もしくは、見ず知らずの「友人の友人」からいただいたコメントにも（エントリを紹介いただいた「友人」に感謝を表します）、「興味」を引き金にして「やりたいこと」を手中に引き寄せる（あるいは偶発的に発生する）というお考えが比較的多かった。<br />
理屈っぽく推し進めるなら、たとえ興味や趣向と呼ばれるものも、自らゼロベースで生み出すものではなく、また、全くの偶然で自然発生するものでもなく、両親などそれまでの人生で関わってきた人々を「真似て」いるだけに過ぎないという説もある。<br />
かといって、参照先の興味や趣向の起源を追い求めるとキリがない。はい、出ました「棚上げぇー（前に突き出した人差し指を左右に振る）」。興味の発生源は「わかんない」と、結論を保留にします。<br />
就職活動の面接とかで「一番何かをやり遂げてうれしかったことは何ですか」という質問がある、というか表現はどうであれそのような「うれしかったこと」を問う趣旨の質問がある。今ここで振り返ってみると、その問い方に対し「うまいこと考えたな」と思える節がある。充実したと思えることでもなく、うまくできたことでもなく、もちろん、今まで一番褒めてもらったことといった稚拙な質問でもない。<br />
前述の「やりたいこと」に包含された種々の意味的な要素が「うれしかったこと」を問うことで、暗黙であっても比較的効率良く引き出せる。つまり「やりたいこと」に対する結果として「うれしいこと」と表現することが、言い得て妙だと思うわけである。さらには、その回答は、複次元上に表現されたベクトルについて、各座標軸上の大きさへと分解できる。それぞれの大きさは、ベクトルを特徴付ける「重み」であり、そのことから、一般的に「価値観」と呼ばれているものを洞察することができる。「能力発揮要求５、承認欲求４、自己実現２」といった風に。<br />
単純に「興味がある」という表現で身動きがとれなくなったものを、座標軸上へと分解する、もしくは、メタレベルへ汎化させることで、およそボンヤリと場所は見えてくるのではないだろうか。その「ぼんやり」のままだとしても、それをそのまま自分で「認知」さえできれば良いのだ。<br />
何にでも興味をもってみることから始める、のではあまりに無鉄砲じゃないか。探索対象の領域を絞り込んでみるのは真っ当な手段だ。キャンバスの上にリンゴの絵を描くのが難しいなら、明らかに背景や余白となる部分から塗りつぶしてみるだけでよい。リンゴの輪郭から描く必要はない。こんなのはリンゴじゃないと言う奴がいたら、リンゴではないが「リンゴの影」だと豪語してやればいい。<br />
「自分探し」とは、海外の見知らぬ土地へ旅行して、自分をリセットすることなんかじゃ決してない。ストイックに内なる自分と対峙して、「興味」のその先に（その内に）あるものを、せめてその影だけでも見つけようとする姿勢であるべきだ。</p>
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		<title>「やりたいこと」はどのように生まれるのか</title>
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		<pubDate>Sun, 08 Jun 2008 14:43:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[前回のエントリ「『やりたいこと』を見つけ、それを仕事としなさい。」で述べた高次元軸での評価基準の話は、全くのオリジナルではないのでご注意いただきたい。
「成長前夜／ショーンＫ 2005.2」の中でショーンＫが記した「人間 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>前回のエントリ「<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post-113.html">『やりたいこと』を見つけ、それを仕事としなさい。</a>」で述べた高次元軸での評価基準の話は、全くのオリジナルではないのでご注意いただきたい。<br />
「成長前夜／ショーンＫ 2005.2」の中でショーンＫが記した「人間の成長とは『やりたいこと（希望）』『やれること（能力）』『やるべきこと（責任）』のバランスを保ちながら、それぞれを頂点にする正三角形の面積を大きく広げていくプロセスだと思う」という、そのままの記述に学んだものだ。また「キャリアアンカー／エドガー・H. シャイン著 2003.6」の中でエドガーシャインが記す「自分は何が得意か？　自分は何をやりたいのか？　どのよなことをやっている自分なら、意味を感じて社会の役に立っていると実感できるか？」という３つの問いからヒントを得ている。<br />
さて本題。<br />
妻と娘が「ゆうちゃん」と呼んで応援しているシンガーソングライターがいる。インディーズＣＤを買ってきては、６歳の娘が口ずさむほどに聴き込んでいる様子だ。どうやら、街頭で路上ライブを見かけて以来、すっかりファンになったようだ。<br />
昨日の食事の時にラジカセでそのＣＤをかけてくれたので拝聴する。偉そうな言い方だが、正直、何か今までにない特徴を持ち揃えた印象はなく、ごく「ありきたり」なアーティストに聴き受けられた。<br />
６歳の娘にファンになった理由を問うてみると「かわいいから」とのこと。<br />
絶対違う。<br />
いや、別にかわいくないだろう、ということが述べたいのではなくて、一番最初に娘の心をフックして捕らえたのは「かわいさ」ではないはずだろう。<br />
では何なのか。（もっと整理して考える必要はあるのだが）私が言えるのは、それは「自認」ではないだろうか。<br />
ある対象Ａに対して好きなところを述べる場合、ただ思うまま感性や直感に身を任せたままでも回答することができる。この場合、質問によっては「自分がＡを好きか」ということへの問いの回答を強制されることはない。<br />
しかし、「好きなものは何か」と聞かれて、先ほどの対象Ａを導き出すには、まず必ず「自分はＡが好きだ」という結論を自認することが不可欠となる。<br />
一方通行なこの２つの質疑を「可逆的」なものにするのが「自認」の意識である。<br />
「やりたいこと」をスラスラと語るためには、そこに「これでやっていく」という一種の決意や覚悟であったり、「これが好きなのです」という外向きの宣言やアピールといった自認の要素が少なからず含まれてる。<br />
「友人」や「知り合い」というレベルから、恋愛感情へ引き上げるための、初速としての駆動力となるのも「もしかしたら好きなのかも」という自認である。この時「好き」の理由を自分で理解することは非常に難しい。ただ何となく気になる、ただ何となく相手のことをもっと知りたい。そんな思いが内から発せられ、意識が吸い寄せられる。さらには、別段はっきりした理由なく一緒にいる中で相手の良さに気付き、好きに昇格することだってある。きっと、何かを好きになるというプロセスには、卵が先か鶏が先かという議論に陥るケースがある。<br />
要は、始めに理由ありきの好きと、結果的に理由が後付けされる好きとが、互いに併せ含むように形作られるのではないだろうか。<br />
自認を伴わずに趣向が存在するケースもあるように見受けられる。その例外的ケースとは「一目惚れ」である。ところが、例えば、猫顔だから好きなのだ、離れ目だから好きなのだ、アヒル口だから好きなのだ、などといった理由が存在する場合であっても「自分がアヒル口を好む理由」は、きっと掘り起こすことが難しい。実は、根源的理由は保留されたままなのだ。<br />
非合理だが、趣向が生じた本当の理由の特定を「一時的に棚上げした」状態で前へ進まない限り、趣向は生まれえない。きっとそうだ。</p>
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		<title>「やりたいこと」を見つけ、それを仕事としなさい。</title>
		<link>http://www.ohbatch.net/blog/2008/06/06/312/</link>
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		<pubDate>Fri, 06 Jun 2008 14:59:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ohbatch</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[暑苦しい響きだ。ちょー暑苦しい響きだ。鳥肌が立つほど暑苦しいフレーズじゃないか。「好きなことを見つけなさい」だとか、「やりたいことをやってみなさい」とか、こんなアドバイスをよく目にする。ある意味このフレーズは、世間で一定 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>暑苦しい響きだ。ちょー暑苦しい響きだ。鳥肌が立つほど暑苦しいフレーズじゃないか。「好きなことを見つけなさい」だとか、「やりたいことをやってみなさい」とか、こんなアドバイスをよく目にする。ある意味このフレーズは、世間で一定のポジションを得た、一種の模範回答のように捉えられている。<br />
しかし、実際には、友人で「やりたいこと」を言えそうな人間を思い起こそうにも浮かばない、極端な例だと、娯楽以外に「好きなこと」すら回答に詰まるのが本音ではないだろうか。<br />
決して「私には、やりたいことがあります。そのために努力しています」なんて、さらに暑苦しい声をあげるつもりもない。熟慮なくそんな言葉を発そうものなら、しばらく梅雨に打たれてみろと言いたくなる。「やりたいことが見つかりません。何から始めてみればいいでしょうか」みたいな思春期のコのような悩みを打ち明けたいわけでもない。<br />
よくよく考えてみると、何もない状態から「やりたいこと」なんて果たして見つけることなんてできるのか？<br />
若いうちから自分の「やりたいこと」を本質的に捉えることなんてできるわけがない。これは決して言い過ぎではないと私は思っている。無限に近い選択肢の中から、情報不足で評価基準も定かでない中で、好みに合ったものを見つけろとは、人間の能力を過信するにも程があるのではないだろうか。私たちを一体誰だと思っているのだ。<br />
「やりたいこととは何か」<br />
ちょっと、そんな疑問を真ん中に据えてじっくり考えてみたい。あわよくば、どうやって見つけるべきものなのかを探ってみたい。深い心のダイビングの始まりだ。<br />
「やりたい」と表現できるものの中には、純粋に「したい（want）」の他に、実は非常に多くの要素が内在している。しかし「やりたいこととは何？」と聞かれると「したい（want）」ばかりに囚われ盲目となっていないだろうか。単純な言葉で表現してしまうと、そこに内包した多くの意味が欠落し見落としてしまう。言葉で表現できるのは、全体のごく一部でしかないのだ。<br />
少し話が逸れるが、先日友人が面白い話を聞かせてくれた。<br />
彼は「理想の結婚相手に巡り会うためには、一体何人の異性と知り合う必要があるのか」と問題提起したうえで、「もし、10人に１人の割合で自分の好みの容姿が存在すると仮定し、そのうえ性格が合うのは、さらに1/10と仮定する。おっと。まずそれ以前に知り合って、まず仲良くなるだけでもすげぇ確率低いんでね？&#8230;」と続く。<br />
その場で私は「自分の好みなんて後で幾らでも変わっていくもんだわさ。どやさ、どやさ」とコメントしておいた。一瞬、「『出会い』を数値で考えるかフツー？」なんて感じなくはないが、ちょうど「好きな仕事って、はて何だろう」って漠然と思い耽っていた私には、彼の投げかけたボールがダブって見えた。「やりたい仕事は、一体どれほどの数の仕事を試してみれば見つかるのだろう」「『好き』が形作られる道のりに近道はあるのだろうか」と。<br />
ここで、ゴールまでの道のりを大いに遠ざけているのが、言わば「『want』のみに頼ることによる制限」ではないだろうか。前述の話だと「結婚相手」を「好み」のみに縛っていることだ（決して「好み」でない異性と結婚すべきと言いたいのではない、うん、決して。）。複雑な問題を「単純モデル化」し過ぎたためにゴールを遠ざけてはいないだろうか。好きと一言で形容され集約されたとしても、本来その出発点には言葉では言い表せない様々な思いが原点にきっとある。<br />
戻そう。「好きな仕事」でも同じことだと言える。「やりたい」と表現されるものには、「認められたいこと」「喜んでもらいたいこと」といったバリエーションの他にも、「できる（can）こと」とか「すべき（should）こと」とかも、過程が暗黙的であっても「したい」に行き着くことだってある。<br />
「したい／したくない」という一次元軸上を行ったり来たりするだけである必要はない。例えば「したい／したくない（興味）」「できる／できない（能力）」「すべき／やらなくともよい（貢献）」「褒められる／褒められない（承認）」という４次元軸上で、例え一軸において低い値を示しても、ベクトル長さ－距離－が遠い地点は、それはやはり「やりたい」と自認できるようなことなのだ。<br />
さすが数年に渡り悩み続けただけある。構想数年、構成2ヶ月、執筆30分という尻すぼみなエントリだが、実は書ききっていない続きがある。また<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post-116.html">次回</a>お会いしましょう。</p>
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