空気を読むのは難しい

このあいだ、キャップ帽が欲しくて服飾店を物色していたときのこと。
まるでメジャーリーグのチーム帽かと思うようなイニシャルをあしらったユニークなデザインのキャップ帽を見つけた。
「KY」
なるほど、空気読めってか。
ネタとしては微笑ましいのだが、これを被って街中を闊歩する姿は少々おぞましい。
ノンバーバルとはいえ、そんなメッセージを街ん中で不特定多数へ発することのおぞましさ。これを発信することで、一体周囲にどんな配慮を要求(もしくは強要)してしまっているのだろうか。そう考えると、このワンシーンは軽くホラーに近い。
空気読め、なんて言葉が流行しているが。何とも考えさせられるものがある。これが「私の気持ちも察して」という意味であれば杞憂に過ぎない(その意味であったとしても、そんなことを言われるシーンにあまり遭遇したくないが)。「空気読め」には、どうも「マイノリティは黙ってろ」という含意が多少なりともある気がしてならない。つまり空気とは、当然「場の」空気のことを指しているからだ。
勤める会社でウナギの産地偽装を見つけて指摘した際、おエライさんが一言「おい、おまえ空気読め」なんて凄まれたら、替えのパンツは何枚あっても足らない。
例えるなら、そんな怖さ。
個人主義だの、自己責任だの、多様な価値観を是とする思想などが押し寄せてくる中で、一見、古めかしくも日本らしい「右に倣え」という意味を含んだ言葉が流行することは、もしかすると、そうした圧力への反抗や、原点回帰への願望なのだろうか。と思うと深読みし過ぎかも知れない
ちなみに、考えてみるに、これに相反する流行語は「カラスの勝手でしょ」である。古い、しかし、我ながら深いわ!
空気読めと発信できるということは、発信者自信が空気を読めていることを前提とし、また、その場において、既に暗黙のままに多数意見が形成されていることを前提とする。
これは相当なリスクを抱えたままバクチを張ることになる。ヘタに仕掛けようものなら「お前が(空気を)読めや」と返り討ちにあうのだから。
あまり大した内容でなかったのだが、要は「空気を読む」のも難しいが、「空気読め」と言うのはもっと難しい。という話でした。ごきげんよう。

どうやって「やりたいこと」を見つけるか

前回前々回から引き続いて、もう「そして伝説へ」と副題をつけたい衝動を抑えての3回目。
どうやって「やりたいこと」を見つけるのか。
ストレートな模範解答を挙げるなら、好奇心をもって様々なことへトライすべし、となるのだろう。しかし、正解なのだろうがあまりに不親切だ。少なくとも私は、そんな表現では胆に落ちてこない。(そして「飛躍しすぎやしないか、前回までの2回の前振りは何だったのか」という話になる)
SNS内で友人、もしくは、見ず知らずの「友人の友人」からいただいたコメントにも(エントリを紹介いただいた「友人」に感謝を表します)、「興味」を引き金にして「やりたいこと」を手中に引き寄せる(あるいは偶発的に発生する)というお考えが比較的多かった。
理屈っぽく推し進めるなら、たとえ興味や趣向と呼ばれるものも、自らゼロベースで生み出すものではなく、また、全くの偶然で自然発生するものでもなく、両親などそれまでの人生で関わってきた人々を「真似て」いるだけに過ぎないという説もある。
かといって、参照先の興味や趣向の起源を追い求めるとキリがない。はい、出ました「棚上げぇー(前に突き出した人差し指を左右に振る)」。興味の発生源は「わかんない」と、結論を保留にします。
就職活動の面接とかで「一番何かをやり遂げてうれしかったことは何ですか」という質問がある、というか表現はどうであれそのような「うれしかったこと」を問う趣旨の質問がある。今ここで振り返ってみると、その問い方に対し「うまいこと考えたな」と思える節がある。充実したと思えることでもなく、うまくできたことでもなく、もちろん、今まで一番褒めてもらったことといった稚拙な質問でもない。
前述の「やりたいこと」に包含された種々の意味的な要素が「うれしかったこと」を問うことで、暗黙であっても比較的効率良く引き出せる。つまり「やりたいこと」に対する結果として「うれしいこと」と表現することが、言い得て妙だと思うわけである。さらには、その回答は、複次元上に表現されたベクトルについて、各座標軸上の大きさへと分解できる。それぞれの大きさは、ベクトルを特徴付ける「重み」であり、そのことから、一般的に「価値観」と呼ばれているものを洞察することができる。「能力発揮要求5、承認欲求4、自己実現2」といった風に。
単純に「興味がある」という表現で身動きがとれなくなったものを、座標軸上へと分解する、もしくは、メタレベルへ汎化させることで、およそボンヤリと場所は見えてくるのではないだろうか。その「ぼんやり」のままだとしても、それをそのまま自分で「認知」さえできれば良いのだ。
何にでも興味をもってみることから始める、のではあまりに無鉄砲じゃないか。探索対象の領域を絞り込んでみるのは真っ当な手段だ。キャンバスの上にリンゴの絵を描くのが難しいなら、明らかに背景や余白となる部分から塗りつぶしてみるだけでよい。リンゴの輪郭から描く必要はない。こんなのはリンゴじゃないと言う奴がいたら、リンゴではないが「リンゴの影」だと豪語してやればいい。
「自分探し」とは、海外の見知らぬ土地へ旅行して、自分をリセットすることなんかじゃ決してない。ストイックに内なる自分と対峙して、「興味」のその先に(その内に)あるものを、せめてその影だけでも見つけようとする姿勢であるべきだ。

「やりたいこと」はどのように生まれるのか

前回のエントリ「『やりたいこと』を見つけ、それを仕事としなさい。」で述べた高次元軸での評価基準の話は、全くのオリジナルではないのでご注意いただきたい。
「成長前夜/ショーンK 2005.2」の中でショーンKが記した「人間の成長とは『やりたいこと(希望)』『やれること(能力)』『やるべきこと(責任)』のバランスを保ちながら、それぞれを頂点にする正三角形の面積を大きく広げていくプロセスだと思う」という、そのままの記述に学んだものだ。また「キャリアアンカー/エドガー・H. シャイン著 2003.6」の中でエドガーシャインが記す「自分は何が得意か? 自分は何をやりたいのか? どのよなことをやっている自分なら、意味を感じて社会の役に立っていると実感できるか?」という3つの問いからヒントを得ている。
さて本題。
妻と娘が「ゆうちゃん」と呼んで応援しているシンガーソングライターがいる。インディーズCDを買ってきては、6歳の娘が口ずさむほどに聴き込んでいる様子だ。どうやら、街頭で路上ライブを見かけて以来、すっかりファンになったようだ。
昨日の食事の時にラジカセでそのCDをかけてくれたので拝聴する。偉そうな言い方だが、正直、何か今までにない特徴を持ち揃えた印象はなく、ごく「ありきたり」なアーティストに聴き受けられた。
6歳の娘にファンになった理由を問うてみると「かわいいから」とのこと。
絶対違う。
いや、別にかわいくないだろう、ということが述べたいのではなくて、一番最初に娘の心をフックして捕らえたのは「かわいさ」ではないはずだろう。
では何なのか。(もっと整理して考える必要はあるのだが)私が言えるのは、それは「自認」ではないだろうか。
ある対象Aに対して好きなところを述べる場合、ただ思うまま感性や直感に身を任せたままでも回答することができる。この場合、質問によっては「自分がAを好きか」ということへの問いの回答を強制されることはない。
しかし、「好きなものは何か」と聞かれて、先ほどの対象Aを導き出すには、まず必ず「自分はAが好きだ」という結論を自認することが不可欠となる。
一方通行なこの2つの質疑を「可逆的」なものにするのが「自認」の意識である。
「やりたいこと」をスラスラと語るためには、そこに「これでやっていく」という一種の決意や覚悟であったり、「これが好きなのです」という外向きの宣言やアピールといった自認の要素が少なからず含まれてる。
「友人」や「知り合い」というレベルから、恋愛感情へ引き上げるための、初速としての駆動力となるのも「もしかしたら好きなのかも」という自認である。この時「好き」の理由を自分で理解することは非常に難しい。ただ何となく気になる、ただ何となく相手のことをもっと知りたい。そんな思いが内から発せられ、意識が吸い寄せられる。さらには、別段はっきりした理由なく一緒にいる中で相手の良さに気付き、好きに昇格することだってある。きっと、何かを好きになるというプロセスには、卵が先か鶏が先かという議論に陥るケースがある。
要は、始めに理由ありきの好きと、結果的に理由が後付けされる好きとが、互いに併せ含むように形作られるのではないだろうか。
自認を伴わずに趣向が存在するケースもあるように見受けられる。その例外的ケースとは「一目惚れ」である。ところが、例えば、猫顔だから好きなのだ、離れ目だから好きなのだ、アヒル口だから好きなのだ、などといった理由が存在する場合であっても「自分がアヒル口を好む理由」は、きっと掘り起こすことが難しい。実は、根源的理由は保留されたままなのだ。
非合理だが、趣向が生じた本当の理由の特定を「一時的に棚上げした」状態で前へ進まない限り、趣向は生まれえない。きっとそうだ。

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