娘が一人で風呂に入るようになった。何でも一人でできるようになっては「もうお姉さんだなぁ」と褒めてもらうことを何よりも楽しい様子だ。

いつもより少々長い間風呂に入っているなぁ、と思っていたら、なんとまぁ彼女は血まみれで浴室から出てきた。そして、堰を切ったようにわんわんと泣き出す始末。

どうやら、浴室の一角にしまってあったカミソリを興味本位でイヂってしまったようだ。幸い、小指の先の皮を切ってしまったに過ぎない。風呂上がりで血行が促進(?)されている状態で、少々色の濃い血液がトクトクと小指から流れているが、10分程止血してやると、絆創膏で十分処置できる程までに血は止まった。

今まで、血が出て止まらないような大きなけがをしたことがなかった娘は、たいそう驚いた様子だ。両親に発見されてから一気に泣き出したことから、浴室で小指の止まらない血を見つめて過ごした時間は、本人にとって「この世の終わり」かと思えるような恐ろしい時間だったのかも知れない。

きっとこのテの体験は、大人になっても記憶に残りやすい類の、大げさに言えばトラウマと呼べるような体験になるのだろうか。

「さすがに止血した方が良さそう」だけれども、「大した傷でない」ことが把握できた時、私は第一声として、娘に何と声をかけようか迷った。うん結構迷った。

普段あまり耳にすることがないような泣き声をあげ、手首まで血が流れてきているその姿に、確かに私も最初は驚いた。浴室で親に見つかるまでの(おそらく)数分間に娘が感じたであろう恐怖は想像して余りある(きっと「これって死ぬんじゃないか」とパニックになったはずだ)。私自身に動揺がなかったと言えばウソになる。

ここで沸いた「迷い」は、きっと「このシチュエーションでのリアクションが、今後の娘の人生を大きく左右する」ような気が一瞬したからだろう。

「おまえはハモリパートか」と思えるような、普段より3音上げのトーンで「あららー、大変や大変や、よしよしもう大丈夫、怖かったなー」と騒ぐこともできた。しかし、そのリアクションは既に第一発見者の妻がとっている。

結局は、おそらく私の両親が言ったであろうように「あー大丈夫、大したことない」と動揺を隠して、あたかも全てお見通しだと言わんばかりの態度(これも私の両親がそうしたはずの態度)で接することとなった。

「迷う」とは言ったものの、それ自体は結果論であり、とっさのリアクションをそうそう計算するまでの余裕もなかった。


子供が起こした何かしらの行動、特にその行動が強く自身の印象に残るようなものであった場合、それに対する親のリアクションは子供の人生にに大きな影響を与えるものだと思う。漠然と人生と表した中には、2つ、学びとしての側面と、性格や価値観としての側面を含めている。

親から一方的に「あれやれ、これやれ、あれやめ、これやめ」言うよりも、本人が起こしたアクションを受けてリアクションしてあげる方が、親からのメッセージは何倍も子供のハラに落ちるはずだ。
いや、きっと子供に限った話じゃない。人は何かしらのリアクションを得ることで物事を学んでいくのだろう。頭の中(内面)で屈強の城を築くだけでもなく、外界から一方的に「指導」が注入されるだけでもない。学びとは、あくまでその起点は本人からのアクションであり、それに対する外的環境からのフィードバックによって初めて達成し得るものではないだろうか。という発見に近い仮説。

もう一つの発見は、自分で驚くほど、そのリアクションが自分の両親と似ていることだ(おそらく自分の子供を授かると誰しも感じることなのだろうと思う)。一瞬悩んだリアクションでさえ、いや、とっさに求められたリアクションだからこそ、自分の親が使うであろうフレーズを驚くほどそっくりに発することになる。また同時に、時としてそのリアクションによって子供が感じるであろう心情をも(かつての子供の自分がそうであったように)十分すぎるほど理解できたりするのである。

子供がある程度大きくなると、手がかからない分、感動や変化が薄くなりがちなのだが、大きくなったらなったで、これまた興味深い。

このあいだ、キャップ帽が欲しくて服飾店を物色していたときのこと。
まるでメジャーリーグのチーム帽かと思うようなイニシャルをあしらったユニークなデザインのキャップ帽を見つけた。

「KY」

なるほど、空気読めってか。

ネタとしては微笑ましいのだが、これを被って街中を闊歩する姿は少々おぞましい。
ノンバーバルとはいえ、そんなメッセージを街ん中で不特定多数へ発することのおぞましさ。これを発信することで、一体周囲にどんな配慮を要求(もしくは強要)してしまっているのだろうか。そう考えると、このワンシーンは軽くホラーに近い。

空気読め、なんて言葉が流行しているが。何とも考えさせられるものがある。これが「私の気持ちも察して」という意味であれば杞憂に過ぎない(その意味であったとしても、そんなことを言われるシーンにあまり遭遇したくないが)。「空気読め」には、どうも「マイノリティは黙ってろ」という含意が多少なりともある気がしてならない。つまり空気とは、当然「場の」空気のことを指しているからだ。

勤める会社でウナギの産地偽装を見つけて指摘した際、おエライさんが一言「おい、おまえ空気読め」なんて凄まれたら、替えのパンツは何枚あっても足らない。
例えるなら、そんな怖さ。

個人主義だの、自己責任だの、多様な価値観を是とする思想などが押し寄せてくる中で、一見、古めかしくも日本らしい「右に倣え」という意味を含んだ言葉が流行することは、もしかすると、そうした圧力への反抗や、原点回帰への願望なのだろうか。と思うと深読みし過ぎかも知れない

ちなみに、考えてみるに、これに相反する流行語は「カラスの勝手でしょ」である。古い、しかし、我ながら深いわ!


空気読めと発信できるということは、発信者自信が空気を読めていることを前提とし、また、その場において、既に暗黙のままに多数意見が形成されていることを前提とする。
これは相当なリスクを抱えたままバクチを張ることになる。ヘタに仕掛けようものなら「お前が(空気を)読めや」と返り討ちにあうのだから。

あまり大した内容でなかったのだが、要は「空気を読む」のも難しいが、「空気読め」と言うのはもっと難しい。という話でした。ごきげんよう。

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