<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>ohbatch.net</title>
      <link>http://www.ohbatch.net/?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
      <description>ohbatchのblog</description>
      <language>en</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
      <lastBuildDate>Tue, 17 Jun 2008 14:09:53 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/?v=3.33-ja</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>サーバーが新しくなりました</title>
         <description>創立記念日で会社がお休みなのを利用して自宅のサーバーを新しくした。

もともとは、Pentium3-500MhzのCPUで、メモリが192MBといういわゆる「10年選手」のマシンだったのだが（それでもブログがなんとか動いてのも驚きです）、日本橋のパソコンショップでケースと光学ドライブだけ残して一新。サーバー機としての利用なので、高機能なグラフィックスやサウンド、光学ドライブが一切不要で、しかも既存のケースが再利用したかったので、リスクはあるものの、「パーツ単位」で揃えることに。

Celeron440-2.0GMzにVIA-chipsetP4M900、メモリ1GBを選びながらも、グラフィックカードもサウンドカードも追加せず。全部で2万円と少しで中身を総入れ替えできました。せっかくだから、とSATA対応のHDDを追加で購入したのだが、少なくとも現時点では既存のIDE接続のHDD-40GBをプライマリ利用してるので、最低構成なら、さらに\5,000円節約できたことになる。

早速、ブログの更新を試したところ、体感として４、５倍速い。\15,000で8～9年前の構成から、一気に去年レベルの構成まで引き上げられるのだから、自作機というのはコストが低い（サーバー機という特殊用途だから言えることで、クライアント機として「Vista利用」となれば数倍の値段がかかるのだろう）。
それにしても良い買い物ができた。

本日のお買い物
M/B:BIOSTAR P4M900-M7SE（microATX VIA-P4M900統合chipset）、CPU:Intel Celeron440（2.0GHz）、Mem:(Bulk)DDR2-5300 1GB、HDD:Hitachi HDP725025GLA38（250GB 7,200rpm SATA3Gbps）、Pow UNITCOM UN-400（ATX 400W）、上から\6,000 \5,000 \2,500 \5,000 \4,000。</description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/06/post_115.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/06/post_115.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Tue, 17 Jun 2008 14:09:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>どうやって「やりたいこと」を見つけるか</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post_116.html">前回</a>、<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post_113.html">前々回</a>から引き続いて、もう「そして伝説へ」と副題をつけたい衝動を抑えての３回目。
どうやって「やりたいこと」を見つけるのか。

ストレートな模範解答を挙げるなら、好奇心をもって様々なことへトライすべし、となるのだろう。しかし、正解なのだろうがあまりに不親切だ。少なくとも私は、そんな表現では胆に落ちてこない。（そして「飛躍しすぎやしないか、前回までの２回の前振りは何だったのか」という話になる）

SNS内で友人、もしくは、見ず知らずの「友人の友人」からいただいたコメントにも（エントリを紹介いただいた「友人」に感謝を表します）、「興味」を引き金にして「やりたいこと」を手中に引き寄せる（あるいは偶発的に発生する）というお考えが比較的多かった。

理屈っぽく推し進めるなら、たとえ興味や趣向と呼ばれるものも、自らゼロベースで生み出すものではなく、また、全くの偶然で自然発生するものでもなく、両親などそれまでの人生で関わってきた人々を「真似て」いるだけに過ぎないという説もある。
かといって、参照先の興味や趣向の起源を追い求めるとキリがない。はい、出ました「棚上げぇー（前に突き出した人差し指を左右に振る）」。興味の発生源は「わかんない」と、結論を保留にします。

就職活動の面接とかで「一番何かをやり遂げてうれしかったことは何ですか」という質問がある、というか表現はどうであれそのような「うれしかったこと」を問う趣旨の質問がある。今ここで振り返ってみると、その問い方に対し「うまいこと考えたな」と思える節がある。充実したと思えることでもなく、うまくできたことでもなく、もちろん、今まで一番褒めてもらったことといった稚拙な質問でもない。

前述の「やりたいこと」に包含された種々の意味的な要素が「うれしかったこと」を問うことで、暗黙であっても比較的効率良く引き出せる。つまり「やりたいこと」に対する結果として「うれしいこと」と表現することが、言い得て妙だと思うわけである。さらには、その回答は、複次元上に表現されたベクトルについて、各座標軸上の大きさへと分解できる。それぞれの大きさは、ベクトルを特徴付ける「重み」であり、そのことから、一般的に「価値観」と呼ばれているものを洞察することができる。「能力発揮要求５、承認欲求４、自己実現２」といった風に。

単純に「興味がある」という表現で身動きがとれなくなったものを、座標軸上へと分解する、もしくは、メタレベルへ汎化させることで、およそボンヤリと場所は見えてくるのではないだろうか。その「ぼんやり」のままだとしても、それをそのまま自分で「認知」さえできれば良いのだ。


何にでも興味をもってみることから始める、のではあまりに無鉄砲じゃないか。探索対象の領域を絞り込んでみるのは真っ当な手段だ。キャンバスの上にリンゴの絵を描くのが難しいなら、明らかに背景や余白となる部分から塗りつぶしてみるだけでよい。リンゴの輪郭から描く必要はない。こんなのはリンゴじゃないと言う奴がいたら、リンゴではないが「リンゴの影」だと豪語してやればいい。

「自分探し」とは、海外の見知らぬ土地へ旅行して、自分をリセットすることなんかじゃ決してない。ストイックに内なる自分と対峙して、「興味」のその先に（その内に）あるものを、せめてその影だけでも見つけようとする姿勢であるべきだ。
]]></description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/06/post_114.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/06/post_114.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Thu, 12 Jun 2008 00:15:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「やりたいこと」はどのように生まれるのか</title>
         <description><![CDATA[前回のエントリ「<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post_113.html">『やりたいこと』を見つけ、それを仕事としなさい。</a>」で述べた高次元軸での評価基準の話は、全くのオリジナルではないのでご注意いただきたい。「成長前夜／ショーンＫ 2005.2」の中でショーンＫが記した「人間の成長とは『やりたいこと（希望）』『やれること（能力）』『やるべきこと（責任）』のバランスを保ちながら、それぞれを頂点にする正三角形の面積を大きく広げていくプロセスだと思う」という、そのままの記述に学んだものだ。また「キャリアアンカー／エドガー・H. シャイン著 2003.6」の中でエドガーシャインが記す「自分は何が得意か？　自分は何をやりたいのか？　どのよなことをやっている自分なら、意味を感じて社会の役に立っていると実感できるか？」という３つの問いからヒントを得ている。

さて本題。
妻と娘が「ゆうちゃん」と呼んで応援しているシンガーソングライターがいる。インディーズＣＤを買ってきては、６歳の娘が口ずさむほどに聴き込んでいる様子だ。どうやら、街頭で路上ライブを見かけて以来、すっかりファンになったようだ。
昨日の食事の時にラジカセでそのＣＤをかけてくれたので拝聴する。偉そうな言い方だが、正直、何か今までにない特徴を持ち揃えた印象はなく、ごく「ありきたり」なアーティストに聴き受けられた。

６歳の娘にファンになった理由を問うてみると「かわいいから」とのこと。
絶対違う。
いや、別にかわいくないだろう、ということが述べたいのではなくて、一番最初に娘の心をフックして捕らえたのは「かわいさ」ではないはずだろう。

では何なのか。（もっと整理して考える必要はあるのだが）私が言えるのは、それは「自認」ではないだろうか。
ある対象Ａに対して好きなところを述べる場合、ただ思うまま感性や直感に身を任せたままでも回答することができる。この場合、質問によっては「自分がＡを好きか」ということへの問いの回答を強制されることはない。
しかし、「好きなものは何か」と聞かれて、先ほどの対象Ａを導き出すには、まず必ず「自分はＡが好きだ」という結論を自認することが不可欠となる。
一方通行なこの２つの質疑を「可逆的」なものにするのが「自認」の意識である。

「やりたいこと」をスラスラと語るためには、そこに「これでやっていく」という一種の決意や覚悟であったり、「これが好きなのです」という外向きの宣言やアピールといった自認の要素が少なからず含まれてる。

「友人」や「知り合い」というレベルから、恋愛感情へ引き上げるための、初速としての駆動力となるのも「もしかしたら好きなのかも」という自認である。この時「好き」の理由を自分で理解することは非常に難しい。ただ何となく気になる、ただ何となく相手のことをもっと知りたい。そんな思いが内から発せられ、意識が吸い寄せられる。さらには、別段はっきりした理由なく一緒にいる中で相手の良さに気付き、好きに昇格することだってある。きっと、何かを好きになるというプロセスには、卵が先か鶏が先かという議論に陥るケースがある。
要は、始めに理由ありきの好きと、結果的に理由が後付けされる好きとが、互いに併せ含むように形作られるのではないだろうか。

自認を伴わずに趣向が存在するケースもあるように見受けられる。その例外的ケースとは「一目惚れ」である。ところが、例えば、猫顔だから好きなのだ、離れ目だから好きなのだ、アヒル口だから好きなのだ、などといった理由が存在する場合であっても「自分がアヒル口を好む理由」は、きっと掘り起こすことが難しい。実は、根源的理由は保留されたままなのだ。

非合理だが、趣向が生じた本当の理由の特定を「一時的に棚上げした」状態で前へ進まない限り、趣向は生まれえない。きっとそうだ。]]></description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/06/post_116.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/06/post_116.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 08 Jun 2008 23:43:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「やりたいこと」を見つけ、それを仕事としなさい。</title>
         <description><![CDATA[暑苦しい響きだ。ちょー暑苦しい響きだ。鳥肌が立つほど暑苦しいフレーズじゃないか。「好きなことを見つけなさい」だとか、「やりたいことをやってみなさい」とか、こんなアドバイスをよく目にする。ある意味このフレーズは、世間で一定のポジションを得た、一種の模範回答のように捉えられている。

しかし、実際には、友人で「やりたいこと」を言えそうな人間を思い起こそうにも浮かばない、極端な例だと、娯楽以外に「好きなこと」すら回答に詰まるのが本音ではないだろうか。 
決して「私には、やりたいことがあります。そのために努力しています」なんて、さらに暑苦しい声をあげるつもりもない。熟慮なくそんな言葉を発そうものなら、しばらく梅雨に打たれてみろと言いたくなる。「やりたいことが見つかりません。何から始めてみればいいでしょうか」みたいな思春期のコのような悩みを打ち明けたいわけでもない。

よくよく考えてみると、何もない状態から「やりたいこと」なんて果たして見つけることなんてできるのか？
若いうちから自分の「やりたいこと」を本質的に捉えることなんてできるわけがない。これは決して言い過ぎではないと私は思っている。無限に近い選択肢の中から、情報不足で評価基準も定かでない中で、好みに合ったものを見つけろとは、人間の能力を過信するにも程があるのではないだろうか。私たちを一体誰だと思っているのだ。

「やりたいこととは何か」
ちょっと、そんな疑問を真ん中に据えてじっくり考えてみたい。あわよくば、どうやって見つけるべきものなのかを探ってみたい。深い心のダイビングの始まりだ。

「やりたい」と表現できるものの中には、純粋に「したい（want）」の他に、実は非常に多くの要素が内在している。しかし「やりたいこととは何？」と聞かれると「したい（want）」ばかりに囚われ盲目となっていないだろうか。単純な言葉で表現してしまうと、そこに内包した多くの意味が欠落し見落としてしまう。言葉で表現できるのは、全体のごく一部でしかないのだ。

少し話が逸れるが、先日友人が面白い話を聞かせてくれた。
彼は「理想の結婚相手に巡り会うためには、一体何人の異性と知り合う必要があるのか」と問題提起したうえで、「もし、10人に１人の割合で自分の好みの容姿が存在すると仮定し、そのうえ性格が合うのは、さらに1/10と仮定する。おっと。まずそれ以前に知り合って、まず仲良くなるだけでもすげぇ確率低いんでね？…」と続く。

その場で私は「自分の好みなんて後で幾らでも変わっていくもんだわさ。どやさ、どやさ」とコメントしておいた。一瞬、「『出会い』を数値で考えるかフツー？」なんて感じなくはないが、ちょうど「好きな仕事って、はて何だろう」って漠然と思い耽っていた私には、彼の投げかけたボールがダブって見えた。「やりたい仕事は、一体どれほどの数の仕事を試してみれば見つかるのだろう」「『好き』が形作られる道のりに近道はあるのだろうか」と。

ここで、ゴールまでの道のりを大いに遠ざけているのが、言わば「『want』のみに頼ることによる制限」ではないだろうか。前述の話だと「結婚相手」を「好み」のみに縛っていることだ（決して「好み」でない異性と結婚すべきと言いたいのではない、うん、決して。）。複雑な問題を「単純モデル化」し過ぎたためにゴールを遠ざけてはいないだろうか。好きと一言で形容され集約されたとしても、本来その出発点には言葉では言い表せない様々な思いが原点にきっとある。

戻そう。「好きな仕事」でも同じことだと言える。「やりたい」と表現されるものには、「認められたいこと」「喜んでもらいたいこと」といったバリエーションの他にも、「できる（can）こと」とか「すべき（should）こと」とかも、過程が暗黙的であっても「したい」に行き着くことだってある。
「したい／したくない」という一次元軸上を行ったり来たりするだけである必要はない。例えば「したい／したくない（興味）」「できる／できない（能力）」「すべき／やらなくともよい（貢献）」「褒められる／褒められない（承認）」という４次元軸上で、例え一軸において低い値を示しても、ベクトル長さ－距離－が遠い地点は、それはやはり「やりたい」と自認できるようなことなのだ。


さすが数年に渡り悩み続けただけある。構想数年、構成2ヶ月、執筆30分という尻すぼみなエントリだが、実は書ききっていない続きがある。また<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post_116.html">次回</a>お会いしましょう。]]></description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/06/post_113.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/06/post_113.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Fri, 06 Jun 2008 23:59:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>想像力</title>
         <description>12日に中国四川省で発生した地震は、死者が一万人を超える、と13日夜のニュースでは伝えられている。
正直なところ、このご時世に1万人もの人間が一度に死ぬことがあるとは、いい表現じゃないが「驚いた」。いや、正確に言うと阪神大震災でも7000人くらいで、911での犠牲者は3000人くらいだったはずだから、「こんなことはもうない」と（何の根拠もなく）思い込んでいたと表現するのが合っているかも知れない。

難しいもので、数千万人や一万人が一度に死んだ、と言われても数字の大小はともかく、想像が沸きにくい。
阪神大震災の場合でも、被害者数も分かる、社会インフラが破壊されてどれほど生活に苦労されたのかも、交通が分断されて多くの人が立ち往生を余儀なくされたのかも、家族の方がどんな風に家具に押しつぶされて亡くなったのかも、その後身寄りのないお年寄りが仮設住宅で孤独死されたのかも、全てニュースで伝えられる範囲では「理解」できている。
しかし、7000人とそれを取り巻く多くの人々が感じた苦しさや悲しさをイメージしきれない自分は当時中学生だった。

これもニュースを見聞きする範囲だが、今回中国で起きた地震では学校の倒壊によって、教師や生徒の多くが現在もなお瓦礫の下に埋まっているという。瓦礫の下では、ありったけの恐怖と苦痛で描かれた地獄を、小学生くらいのその小さな身体に抱え込んで救助を待っているのかと思うと、月並みな表現だが心が痛む。

中学生の時の私と違い、結婚して子を持つようになった私には、親しき者を失う悲しみが理解できるようになった。もちろん当の本人からすれば「あなたに何が分かるのよ」という話なのだが、少なくとも以前よりは「想像」できるようになった。

「日本人の乗客はいませんでした、いませんでした」との歌じゃないが、最近のニュース、誰でもよかったとか、石油ストーブや車が火ぃ噴いちゃうとか、キレる十何歳とか、別の客の食べ残しまでリサイクルしちゃうとか、むしゃくしゃしていたとか、だいたいどれも「想像力が足りなかった」と言える気がしてならない。思いやりも愛も、言うなれば想像力なんだと思っている。

だからニュースで、瓦礫の下から救助を求める女性や、余震を恐れながら路上で家族と寄り添って眠る幼い子や、幸い生き延びたものの決死の覚悟で家財道具を掘り出す市民を見ながら、目を背けないで、できるところまで想像したい。想像して欲しい。
この人たちはどんなに「悲しい」のだろうと。

その行為が「遺憾の意を表す」ことなのだと思う。

自分で書いていて、どっかで聞いたことあるなと思ったら、そういやジョンレノンが歌ってたわな「想像してごらん」って。あーぁ、なんだよパクリかよー。がっかりだぜー。</description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/05/post_112.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/05/post_112.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Wed, 14 May 2008 00:31:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>持ち家か賃貸か</title>
         <description><![CDATA[賃貸で住んでいるマンションで大規模な工事が始まった。なんでもベランダの柵を一新するのだとか。数百戸もある「昭和」なマンションだから、足場を組むだけでも、もう数週間になる。足場が組まれたうちの南向きのベランダは、どうも薄暗くなりがちで、ピーカンお天気でも「どうも天気がすぐれない」と勘違いを何度か犯している。

ちなみに工事開始前には、ベランダ柵のデザイン案について住民による投票があった。うちは分譲賃貸だから、投票権は家主様にある。ただし、分譲賃貸だけれども、今年は各棟のフロアごとの班長の役回りが回ってきた(x_x)。

家の賃貸と購入にかかる比較についてのエントリを見つけ興味深く拝見（<a href="http://blog.gcd.org/archives/51168556.html">仙石浩明の日記: なぜ、「購入 VS 賃貸」 という比較がナンセンスなのか？</a>）。「夢のマイホーム」「一国一城の主」みたいな、知らぬ間に刷り込まれたバイアスに一旦蓋をして、金額ベースで比較しておられる。

<blockquote>株に投資するなど夢にも思わないような堅実(?)な人が、何の疑問も抱かずにローンを組んでマンション等を買ってしまうのが不思議でならなかったのである（<a href="http://blog.gcd.org/archives/51168556.html">同ページより引用</a>）</blockquote>

株はリスクがあると避けるのに、巨額なローンは「誰もが歩む道」とばかりに平気で負う人々へ抱いていた違和感を拝読しながら、「そうそう」と思い出す。

「同じ払うなら持ち家になる方が良くない？」とは購入派の主たる反応だ。「同じ払うなら」という前提が広い観点で金額的に納得できるならそうだろう。金額的な比較はトラバ先のエントリを参照されると良いだろう。

<blockquote> (ローン金利と同率の) 3% の利回りが期待できると仮定してみる（<a href="http://blog.gcd.org/archives/51168556.html">同ページより引用</a>）</blockquote>

ただ、地価上昇が見込めない点、貯蓄した場合の前提となる利率（いくら何でもローン金利と同じ3%とは、個人的には比較する上で高く見積もり過ぎな気がしないでもない）はエントリ筆者の主観でしかないので充分な注意が必要だ。また、算出に利用されている要素にも、考えようでいか様にもなってしまう部分があると感じるので、金額の大小は気にせず捉えたい。


先が予測しきれないリスクというのは何も金額換算（さらには割引現在価値で比較）できるものに留まらない。購入した物件は、賃貸の物件と比べ移動が困難であることは想像に難くない（無理やり金額換算するならスイッチングコストとも呼ぶべきだろうか）。例えば、隣にどうにも怪しい住人が越してきたらどうだろう、もしくは急に親の介護が必要になり実家へ帰らざるを得ないとしたら。子供が執拗ないじめに遭い転校を余儀なくされたら。生活に必要なものが安く手に入る居住区だろうか、治安は安定しているのだろうか、地盤が緩いだの、河川が近いだの防災上の考慮はなされているのだろうか。住居を購入し定住することは、そんなリスクを一度は一手に引き受けることを意味するのだと考えている（もちろん防災などについては保険などでリスクを転嫁し、低減する手段はあるだろう）。反対に賃貸であっても、家主がトラブルメーカーだとか、うちみたいに風呂が壊れても修理までの手続きが煩雑になりがちだとか、壁に穴があけられないといった「持たない」がためのリスクやコストも当然存在する。

どっちが良いとか悪いとかという話ではない（私個人としては賃貸が楽だ）。ただ、人生で一番大きな買い物だ、「同じ払うなら、それが持ち家になる方が良くない？」どまりで思考停止せず、様々な角度から充分に考え抜く必要があると思うのだ。]]></description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/04/post_111.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/04/post_111.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Mon, 07 Apr 2008 23:01:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>パパスキル</title>
         <description><![CDATA[子供がいると、父親としてあるフィールドでスキルを披露する場面に遭遇する。いや、この時代に「父親らしい」とか「母親らしい」といった「らしさ」のカテゴリ分けは、ナンセンスなのかも知れない。ただ、一部の女性が「バックでの片手ハンドル駐車」に男らしさを感じる（らしい）ように、特定の能力が父親らしいと思われるようなものもある。

例えばキャンプに行ったとしよう。火起し、タープの設置、ダイナミックなオトコの料理からロープの結び方まで、キャンプ場はパパスキルのサーカス場と呼ばれている。（しかし「キャンプに行こう」と話題に上ったとしても、「あぁサーカスね、サーカスに行くんだね」などと返事してはならない。キャンプでもサーカスでもなく「まず病院に行って来い」と罵声を浴びることになる。）

専ら「インドア」な私は、キャンプなどもっての他であり（火起しだけは得意だ）、発揮できる分野と言えばDIYぐらいかも知れない。しかも、賃貸でマンション暮らしなので、日曜大工と呼べるものには挑戦できない。せいぜい、ドライバーや六角レンチで自転車を修理するくらいだろうか。
先日娘の自転車（コマなし問題で話題となった自転車だ）に駐車用の「両足スタンド」を設置する要望が持ち上がった。妻はてっきり「自転車屋で装着してもらうもの」と思い込んでいたらしいのだが、私が娘と向かった先はホームセンター。もちろん、両足スタンドだけ購入して、自分で装着するためだ。自転車の大きさ（16インチ）を入念に確認。購入予定の両足スタンドには「必要工具：15mmレンチ」とある。これも大丈夫。我が家には15mmのソケットレンチがある。

さていざ装着しようとして困難にぶち当たる。確かに最も外側を固定しているナットは15mmなのだが、さらに奥に、荷物乗せを挟み込むように17mmナットが固定されている。普通の自転車であれば、15mmナットを外すだけで装着できるようなのだが、なんせ幼児用自転車にディスクブレーキが付いているものだから、少々「特殊」な構造なのかも知れない。両足スタンドを取り付けるには、17mmナットがある箇所から取り外して、荷物乗せを合せて外側から一度に15mmナットで固定しなくてはならない。しかも、17mmナットはネジの随分奥に固定されているため、手持ちのソケットの深さでは、ネジが高くてナットまで届かないのだ。おいー、17mmの「ディープ」ソケットなんてないぜ。
娘は怪訝そうな面持ちで「できた？」などと聞いてくる。
妻は「初めから自転車屋に持っていけよ」と言いたそうだ、すごく言いたそうだ。
少々特殊な造りになっている幼児用自転車にも関わらず、15mmレンチだけで完結すると両足スタンドに記載の説明を信じたばっかりに作業を中断せざるを得ない。「こら無理、観念した。行ってくる」そう聞いた妻の顔が呆れながらも、少し光が差したように見える。

「いや、自転車屋じゃない、ホームセンターや。17mmのディープソケットか、モンキーレンチのような汎用サイズのレンチを買ってくる！」妻の呆れ顔が級数的に加速する。バカだ、このダンナはバカだ。とまで言わんばかりの呆れ顔だ。やっとのことで発した言葉は力なく「いや、レンチじゃなくて」だってさ。いやしかし、こちらとしても引き下がる訳にいかない。

日暮れてやっと完成した<a href="http://www.flickr.com/photos/ohbatch/2334108689/">両足スタンド</a>。妻の目はいささか冷ややかだったが、レンチを回して自転車パーツを外して再度組み立てる時、娘の顔は「すげぇ」と言わんばかりに目を輝かせてくれるのだ。コンピュータをいくら巧みに操っても、娘が感心するのはあくまでコンピュータに対してなのだが、こうしてモノを作る作業をチラっとでも見せると子供心には響くのかも知れない。最近、男の子がなりたい職業に「大工」が結構長いことランクインしているのも、なんとなく分かるような気がしてきた。]]></description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/03/post_110.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/03/post_110.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Mon, 17 Mar 2008 23:25:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>右脳左脳とか文系理系とか</title>
         <description><![CDATA[先日友人がおもしろいと紹介してくれた右脳と左脳のテスト（<a href="http://www.news.com.au/dailytelegraph/story/0,22049,22535838-5012895,00.html">The Right Brain vs Left Brain</a>）。

友人が紹介しておられた二次情報なうえに、紹介されてから随分日数が経っているため、一瞬投稿を迷ったのだが、私なりの主題をまとめるのに時間を要したとあらば許してもらえるだろうと勝手に解釈し、投稿することにする。
壊滅的とも評すべき私の英語力が間違えてなければ、リンク先の絵が右回りに見える私は「比較的右脳を使っている」らしい（全く逆の意味で訳していないか非常に心配）。もちろん、右脳左脳は、それぞれが役割を持っていて両方が相互補完的に働くものだから、右脳人間だとか左脳人間だとかラベリングするつもりは毛頭ない。しかし、私自信「どっちかというと右脳チック」なキャラクターへの憧れに似た願望があったため、正直どことなくうれしい。「ほら、そら算数も理科もできんわさ」　まーなんてネガティブな嬉しさなのだろう。

右脳・左脳という構図と、（よく互いのテリトリ間で摩擦を目にする）文系・理系という構図は、私の中では非常に相通じる構図を持っている。一方が推進力を持つエンジンならば、もう一方は舵を取るハンドル。一方が目的地なら、もう一方は到達ルート。余計にわからなくなりそうだ。一方が「ビジョン」なら、他方はそれを体現する「道具」だと。えいもっと強引に言ってしまえば「目的」に対する「手段」という構図だ。

昔話になってしまうのだが、私が無理に無理をして高校で理系クラスを受講していたことを思い出す。ずっと算数数学、理科化学は大嫌いだった私が理系という道を（一瞬たりであろうとも）選らんだのは、それはただ私が大のMっ気の持ち主だったという理由だけに留まらない。それは、中学生の時にテレビで（確かNHK）見たルポだ。番組もそのテーマも忘れてしまったのだが、今でもひとつだけ覚えているのが、「これからの社会は理系のできる文系を必要としている」という結論だった。もちろん中学生の時分に、「自ら表出力を備えたビジョナリスト」という解釈ができた訳ではない。しかし、目的地を思い描くだけでは到達できないという片輪に属する危機感と、同時に、ちょうどその頃コンピュータを使い始め、これで飯を食うと誓ったばかりのだったのに、きっと「これだけでは飯は食えん」と、もう片輪に属する危機感を併せ呑むように感じ取った。　と今だから（大そうに美化して）思い返すことができる。

ある書籍で出会った「『良い』モノを作っていれば本当に『善い』のか」といった衝撃的な問題提起や、極端な実際の例だと「ここは絵じゃなくてFlashにしてください」なんて話や、「これが会社のビジョンです」なんて話も、計測可能で結果が分かりやすい「道具」にばかり意識が注がれているような気がして、なんだかなー、と思ってしまうのである。　過程も大事。と見せかけの優しさを見せておいて、結局そうは言っても最終的には結果が全て。なんて言われると参ってしまう。別に誰に言われたわけじゃないけど。]]></description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/03/post_109.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/03/post_109.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Mon, 10 Mar 2008 20:59:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>部屋に眠りし300件</title>
         <description>以前よりずっと私の頭を悩ましている書棚の件。足の踏み場は確保できるものの、そもそも部屋の入り口から机への通路が絶たれるまで、床に本が平積みされている。今日は何を思ったのか、書棚に収納されている／されていないに関わらず、タイトルだけを一時間ほどかけてテキストに書き起こしてみる。

文庫棚、平積みの書籍にして260冊。別棚に収納されているマンガ、コンピュータ関係の書籍、雑誌のムック本を合算すると、ゆうに300冊を超える。お、カバンに新書が5冊入っているのを忘れてた、って私は冊数だけ数えて、一体何の優越感に浸っているのだろう。そんなけ読んだなら、なんか、こう、もっと、なんかあるだろうに。確かブログに記録した書籍が60冊程度だったから、まだその4倍近くの書籍が私の部屋に眠っていることになる。

しかし今まで視線がスルーしていたのと違い、タイトルを書き起こしてみると、私の父親が読んでいた書籍を引越し時にかっさらってきた書籍など「あ、これは後になっても絶対読み返さないや」と思える書籍が、いくつかあることを改めて認識できた。

読み返すことがないと思えるもの。小説。あまりに「実用的」すぎるハウツー的実用書。80年代のビジネス書。エッセイ。中途半端な大学の教科書。マンガ。雑学書。このあたりに関しては、読み返すどころか、たぶん「2度と開くこともない」と思われる。

がさっ、と古本屋に引き取ってもらうか。</description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/02/300.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/02/300.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Mon, 18 Feb 2008 22:52:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>おかえり</title>
         <description>先週の休日にMTOSを導入してみたものの、あまりの動作の遅さに嫌気が差し、一時はブログ閉鎖するか、外部サービスで新たにやり直すか検討し始めた。ところが3連休初日の今日、MTOS導入前のバックアップがあったのを思い出し「無理して使いにくいソフト使うこともあるまい」と思い切ってMovabletype3.33にダウングレード（ロールバック）させた。わはは戻したった、おかえり。

再びしばらくは以前の環境で運用していくつもりだが、さすがに記事の蓄積量やサーバーの古さを考えると、今後なんでもかんでも自前で賄うにも無理がありそうだ。


自宅で部屋の掃除など、家族で本当に久しぶりな「まったりした時間」を過ごす。部屋の掃除はあまり進捗なし、いつものとおり「本を、どないかせなあかん」と再認識するところで果てる。大雪だったので自宅で過ごすにはちょうど良い。そういや２つ隣のおばさんが「いやぁーすごい雪やね、これは積もるね、こんなの初めてやね」とひどく興奮した様子で表に出てきていた。マンションなので無理だが、「喜び、庭駆けまわり♪」ぐらいしそうな興奮具合だ。</description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/02/post_108.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/02/post_108.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 10 Feb 2008 02:44:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>とっとこ走るよハム太郎</title>
         <description>自戒を含め消費スタイルを考え直さなくてはならない。

以前、アニメのキャラクターグッズについて、グッズありきでストーリーが構成されているのではないかと疑う程までにコントロールされた販売について憂いた。自らの意思で「欲しい」と沸き起こったように思われる購買欲は、実は誰かによって操られたものだと考えたほうが良い。それも想像を絶するほどに思うままに操られている。最近、書籍でマーケティングや広告について学ぶことが多い。やばい。彼らは「緻密に計算された」とまでは言わないが、できる限り多くの人間に「買いたい」と思わせるよう相当に考え抜いている。それこそ命は言い過ぎであっても、彼らの生活を賭けて消費者に仕掛けてきている。

なんだかありがちなレジャーも考えものだ。家族サービスであろうと、友人との交流目的であろうと、普段あくせく働いて勝ち得た対価となけなしの休暇を消費して渋滞や混雑の激しい連休を使ってレジャーを楽しむ。いや、いっそ「レジャーごっこ」を楽しむと言ってもいいかもしれない。それでもって、リフレッシュ心機一転、明日からも仕事頑張ろうだって？もしくは２ヶ月先に控えた「レジャーごっこ」を普段のモチベーションにしちゃったり？おかしいよ、気付いた方がいいと思うよ、割増して料金設定された盆休みやゴールデンウィークに、自己顕示欲にかられて購入したマイカーで渋滞に巻き込まれながら一種模範的なリフレッシュを楽しんだ気になっているのは。

時間をお金で買うような代物にも最近疑問を抱く。運動不足解消という大義名分を掲げたジム通い。少しでも家事の時間を省くための外食や食器洗濯機。そんなものに目を向けてばかりいるから、みんなの時間はどんどん失われていってるんじゃないだろうか。え、何飛びついてるのよと。食洗機欲しいがために賃金得たんじゃないでしょきっと。そんなことでは、ずっとオーバルトラックを走り続けるハメにならないかな。ここ最近ストレスフルな社会で働く人の「ため」と謳ったチョコレートの広告をよく目にする（栄養ドリンクや総合感冒薬のそれも大差ない）。もう正直一体それ買って何を癒そうとしているのか疑問でならない。心身を犠牲にして得た給料で、よりその耐性を高めようなんて、一体何をどうしたいのよ。それでより多くの犠牲を払おうものなら、ずっとハムスターみたいに筒の中を走り続けていればいい。「筒の中には変わりないけど、だってほら以前よりずっと早く走れるんだぜ」なんて言いながらヒマワリの種でも食うてろ。

いやぁ最近忙しいところで、こんな時間に缶ビールを空けて書くと、進む進む。もうキーボードを叩く手が止まらない。もう読み直してみれば「危険」とも表すべき記述の過激さに笑えてきて仕方ない。しかし最近強く思うことだ。要はヒマワリの種を食うてろ、という話だ、違うけど。</description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/02/post_107.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/02/post_107.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Fri, 01 Feb 2008 00:46:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>つとめて</title>
         <description>知り合いが、既に今年一年の1/24が過ぎた、と記していた。ところで、明けましておめでとうございます:P

いつもの事ながら、年始（≒年度末）はブログの更新が途絶える傾向にある。二年程前に至っては、ブログサイトを（技術的な要因で）閉鎖してしまい、幾人かに「どうしちゃったのか」とご心配をおかけしたこともあった。今日も久しぶりに投稿画面を立ち上げようものなら、perlモジュールのエラー（Unsupported driver MT::ObjectDriver::DBI::sqlite　？）が出る始末。cpan で DBD::SQLite を force に install （なんだか表現が「ルー」っぽい、しかしこれは後々のためにもベリーインポータント重要なミー私のメモなのね）。

横道に逸れつつあるが、要するにそんないつもの年始がやってきた、という話。

どうもこの季節はいけない。少し考えてみると、毎年この時期は、年度末にかけて「駆け込み」の案件が増し余裕がなくなっているのではと思う。そういや過去の比較的大きな仕事も、この近辺に群がるように見受けられる。（与えられた仕事が「群がる」との表現は礼を欠く気がするけど、まいいや）

確か昨年アタマに「今年は精神的にツラいはず」と踏んだのは大当たりで―そう踏んだからかえって。とも考えられるが―、見返すと、うわ自分でも驚く程に暗いエントリが、今週のビックリドッキリメカのように列をなしているじゃないか！年末に久しぶりに会った友人が「お前のブログ読めない」と言ってきたのも分かる。　分かる、すごく分かる。

しかし、外の世界に目を向け大空を駆け飛ぶフライトばかりではなく、自身の心の中に限りなく広がる深海へダイビングするのも悪くない。時間はかかったが一年間で自身に投げかけた問いは、ようやくその姿形をぼんやりと映り始めた気がしてきた。潜りに潜って深き底に降り立ってから初めて水面を、さらには水面を通じて空を見上げてみる視座も悪くない。井戸の外を見るのは、井戸のキャパを知ってからでも遅くない。そんな自分のキャパと、ブレないベクトル軸が見つけることを、きっと「自信」と呼ぶのだろう。

こうして改めることも全然ないまま、読めない、読めても読解に無用な努力を強いる内容で今年もスタートと相成りました。他力本願な表現が自分でも解せないが、今年はなんだか面白い年になりそうな気がしている。今年もよろしくお願いいたします。</description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2008/01/post_106.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2008/01/post_106.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Wed, 16 Jan 2008 23:48:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>無駄に消費を誘うヤツはゼッタイに許さねぇ</title>
         <description>古くからの友人の奥様が「来年4月以降もプリ○ュアやってますように」と願をかけていた。
来年の存続を願ったそれは、幼い女児に大人気の女の子向けヒロインアニメ（私たちの世代だとセーラー○ーンのようなものだ）。うちの娘もそのアニメは大好きで、日曜日になると必ず起きてテレビの前にしがみ付いている。

特撮・アニメに関わらずヒーローもの番組にある程度共通するものを、親の立場になった今見つけたことがある。ヒーローものは「コロコロ変わる」そして「コロコロ増える」のだ。

コロコロ変わる。

番組は概ね半年で終わってしまうのだが、先日ちょうどその中間あたりで放送回の中で新しい武器が登場した。私からすれば、それをどう使えば悪役をやっつけられるのか全く想像できない代物なのだが、とにかく新しい武器だ、きっと強い。この時、私の妻は、思わずハッとさせられる一言を発したのだ。　「またオモチャが増える！」と。

新しい武器が登場した、その放送分から番組の合間のＣＭには早速その武器が「玩具」として広告が始まっている。番組の内容と完全にリンクして玩具（グッズ）が販売されているのだ。もう極端な話、アニメありきのグッズではなく、グッズありきのアニメかと思わずにいられない。冒頭で取り上げた友人の奥様の呟きを思い出して欲しい、番組が新しくなり主人公やコスチュームが変わると、今までのグッズは全て過去のものになってしまうのだ。子供たちには当然「これ前のヤツやーん。前のヤツやーん。」と見抜かれてしまうため、気を許すと恐ろしくも激しい消費の渦に巻き込まれることになる。そういや過去に一度、大型玩具店で一つ前のアニメ番組のグッズが非常に安く叩き売りされていた。古いものだと見抜いた娘に対し「いや、今の子ら（主人公ら）も、これ持ってたでぇ」とチョロ負かして買い与えた記憶がある。

女児向けだけに限らない。同じ時間帯（確か時間は一つ前の枠）で放映されている○面ライダーだって然りだ。私たちが見ていた時代から「ライダー」との冠をそのままに一体何人ものヒーローが生まれていることか！　その度に武器が変わり、コスチュームが変わり、そして変身のポーズも変わっている。是非、久しぶりに日曜日に早起きして見てみることをお勧めする。「電車切り！」と全く想像だにしない必殺技を理解するのに、相当な時間を要し、また長くヒーロー番組から離れていた時間の長さを感じることだろう。それくらい番組は何世代も生まれ変わり、その都度同じ枠組みの中で微妙なコンセプトを変えてきているのだ。

冒頭の友人の奥様は、「できればアニメもん（キャラクターもの）は身につけて欲しくないなぁ」とも併せて漏らしていた。その感想は多分に正しい、サイクルが短いうえ追いかければキリがないんだから。

ここでは、コロコロ変えることでサイクルを短くし、同じターゲットに対し繰り返しアプローチするスタイルを見てきた。エントリが長くなるので「コロコロ増える」ことでアプローチする対象を広げていくケースを次回見ていくことにしたい。　ohbatch聖夜に消費を憂いけり。</description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2007/12/post_105.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2007/12/post_105.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Tue, 25 Dec 2007 23:35:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>私の忘年会</title>
         <description>会社のそれなりの規模の忘年会を欠席する。行けないのではなく、行かないと宣言のうえ欠席する。

煩わしい。と一言で済ませると極端で、若干ニュアンスが外れてしまいそうだが、しかし要はそんなところだ。別段、誰かが嫌いなわけでもなく、人間関係に問題があるわけでもない。もちろん、飲ミニケーションの担う効果や得られるものも否定しない。

ただここ最近、そこの浅い「労のねぎらい」や「動機付け」に大きな疑問を抱くに至っている。何と表現すべきか、傷口を「埋める・ふさぐ」ような（癒やすではなく）感覚が湧いてやまない。私はもともと出不精な性格だが、それを差し引いても余りある。

そんな折、妻から連絡が入る。飲み会に行って来るので娘を実家で拾って帰って欲しいとのこと。先輩に捕まり飲んでるが、場の空気を白けさせたくない、と彼女は釈明した。私が了承した旨を伝えると、妻は突然の依頼をひたすら詫びた。　本当にごめん、本当にごめん、と。

先輩に、そして、ましてや夫にまで、しきりに気を遣いながらも、彼女は何を「埋めよう」としているのだろう。何に囚われて動かされているのだろうか。彼女を取り巻く人間関係、習慣、嫌われたくない気持ち、義理や義務感、深さの見えない友情？　そういった彼女の意思とは異なるベクトルに流されている気がしている。望まずとも自分で組み上げてしまった塀に囲われ縛られ窮屈になっているようだ。憤りや呆れよりも、なんだか不憫に思えてならない。

ささ、クダラナイことは飲んで早く忘れよう。</description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2007/12/post_104.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2007/12/post_104.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 22 Dec 2007 00:24:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>膝上限界突破</title>
         <description>先日、会社帰りに友人と一緒になり帰路を共にした。ここ最近、読書に熱が高まってきた友人が言うには「読んだ本の内容が全然頭に残っていない」ことに対して、ふとした「もったいなさ」を感じているとのこと（しかも、賢ぶって購入した新書においてその傾向が顕著だ、というプチ自虐ネタ付きである）。

なるほどその苦悶は一理ある。ウェブ閲覧で時間だけを費やすならともかく、身銭をはたいて購入した書籍だ。その内容が思い出せず、また身になっていない、投資への効果が実感できないことで疑問を抱き不安になるのは当然のことだろう。

しかし、私はそれでも良いと思えるようになっている。場当たり的な採用基準で購入した書籍が、一度頭に注がれたものの例えそれが流れていったとしても、それはそれで良いと考えている。全てを必ずしも「ストック」させることが効果ではない、ただ「フロー」させるだけでも、（実感は湧かないかも知れないが）効果がないとは言い切れないはずだ。関心のあるテーマなら類似したテーマの書籍によって、ただフローしただけの内容は思い出されてストックに変わる。投資への効果を期待せずにたれ流していれば必要な時にはフックされる、必要なければそのままたれ流し意識せずとも淘汰されていくだけの話だ。そのようにしておそらく自身にとって必要な、もしくは関心のある内容だけが何度か思い起こされ、さらに「どこに書いてたか思い出せない」状態にまでなって自身の思考回路に根付く。そんな風に考えている。


と偉そうに述べてみるものの、私自身、「どこに書いてたか思い出せない」ことに対して最近非常にもどかしさを感じている。やはり読後録を残して、頭からは「思い出せるきっかけ」だけを残して、エッセンスと詳細が思い出せる道筋は別に残しておきたいという思いが強い。
既に読了したものの読後録を残していない書籍が、読後録を残した書籍の数を上回ってきた。本棚に収められていない書籍が、読後録に記録されることもなく、自宅の床に数本の立派な「塔」を形成している。そして幾つかの塔は、臨界点を突破し崩壊・再形成を繰り返している、どうやら書籍を単純に積み上げる場合、「膝」がその高さの臨界点のようである。本もスカートも、なんとか「膝上限界」がまで頑張って欲しいも．．失礼。

感想やコメントはともかく後回しでも、せめて同種のテーマの書籍を読んだことを思い出す、そのイニシャチブだけでも掴めるように、タイトルだけでも記録しておかなくてはいけないと感じている。あー正月の暇つぶしができた。</description>
         <link>http://www.ohbatch.net/2007/12/post_103.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</link>
         <guid>http://www.ohbatch.net/2007/12/post_103.html?utm_source=r&amp;utm_medium=x</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Thu, 13 Dec 2007 00:15:55 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>
