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        <title>ohbatch.net</title>
        <link>http://www.ohbatch.net/</link>
        <description>ohbatchのblog</description>
        <language>en</language>
        <copyright>Copyright 2008</copyright>
        <lastBuildDate>Tue, 18 Nov 2008 00:42:47 +0900</lastBuildDate>
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            <title>赤川プチツアー</title>
            <description><![CDATA[<p>自宅から北西に向かって30分程自転車を走らせたあたりに「赤川鉄橋」と呼ばれる橋がある。何やら古ぼけていて、その用途が珍しい。という程度しか知らない。</p>

<p>土曜日からの雨は午前中いっぱいであがり、残りの「休日」をどのように過ごそうか考えあぐねていた矢先、先述の「赤川鉄橋」の存在を思い出し、妻に聞いてみた。</p>

<p>曰く、城東貨物線という貨物列車専用の線路で架けられた鉄橋なのだが、近隣住民用に歩行路が儲けられているとのこと。その歩行路が古い木製であること、また歩行路のすぐ真横を貨物列車が通り過ぎることがあり、とてもスリリングなのだと言う。<br />
何度かその橋を利用したことがあって、と妻は続ける。その橋の珍しさから、鉄道ファンやカメラファンらしき人々が貨物列車を撮影する光景を何度か目にしたのだ。と熱のこもった説明をしてくれた。</p>

<p>わかった。<br />
ここまで聞いてやっとわかった。<br />
鉄っ気の多い人間にとっては聖地とまでは大袈裟でも、赤川はおそらく一種の巡礼地に近いものに違いない。やけに妻の説明に熱が入っている理由*も頷ける。</p>

<p>ならばと、早速その「赤川鉄橋」に行ってみようではないか。<br />
<a href="http://flickr.com/photos/ohbatch/sets/72157609263854674/" title=""><img src="http://farm4.static.flickr.com/3150/3038504550_4e67aebdd4_t.jpg" width="100" height="75" alt="riverside glow" />赤川鉄橋20081116 - a set on Flickr</a></p>

<p>* 妻は、鉄っ気の多い鉄道ファンだ。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/11/post-124.html</link>
            <guid>http://www.ohbatch.net/2008/11/post-124.html</guid>
            
            
            <pubDate>Tue, 18 Nov 2008 00:42:47 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>リセット！</title>
            <description><![CDATA[<p>リセットしたい。という衝動や傾向は誰にでも見受けられるものだろう。</p>

<p>「全部チャラにしないと打破できない」という妄想は、不確実性を残したまま「リセット」を促す誘惑に負けてしまう。</p>

<p>自分のことを誰も知らない土地へ旅をする。<br />
宝くじが大当たりさえすれば人生変わると思いを馳せる。<br />
未経験の職種に転職して活躍する夢を見る。<br />
要るかも知れないものも含め取りあえず全部捨ててみる。<br />
拡張できずにシステムを全面公開する。<br />
議会の解散を訴える。<br />
ＣＩやボードを一新する。<br />
駆け落ちとかしてみる。<br />
あるいは挙げ句の果てに自らその命を絶つ。</p>

<p>リセットは時に、敵前逃亡といったネガティブに捉えられる。現状突破の意志があるにも関わらず、その閉塞感の発生源に目を向けていない（あるいは背けている）という印象を持ってしまいがちであるからだ。</p>

<p>しかし、リセットが功を奏するケースも大いに存在する。なら、結果論として、リセットやら敵前逃亡呼ばわりされることとの違いは何か。</p>

<p>人間が持つリスクテイキングにおけるバイアスを踏まえているか。正のエネルギー、つまり卑屈にならず攻めの姿勢であることを自覚しているか。リセットしないモノを選り分け確保しているか。こんなあたりだろうか。</p>

<p>気が向いたら詳しく掘り起こしてみたい。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/11/post-123.html</link>
            <guid>http://www.ohbatch.net/2008/11/post-123.html</guid>
            
            
            <pubDate>Wed, 05 Nov 2008 00:01:12 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>デジイチデビュー</title>
            <description><![CDATA[<p><a href="http://www.flickr.com/photos/ohbatch/2959292853/" title="こすもす by ohbatch, on Flickr"><img src="http://farm4.static.flickr.com/3197/2959292853_89e209b7ee.jpg" width="500" height="375" alt="こすもす" /></a></p>

<p>デジイチデビューを果たしました。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/10/post-121.html</link>
            <guid>http://www.ohbatch.net/2008/10/post-121.html</guid>
            
            
            <pubDate>Wed, 22 Oct 2008 02:42:14 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>コアジ</title>
            <description><![CDATA[<p>友人が誘ってくれた海釣りに行ってきました。<br />
<a href="http://www.webburning.com/matsukata/">松方弘樹</a>のカジキマグロ釣りのイメージトレーニングで今日を迎えたが、どうもタイミングが悪かったようで釣果は<a href="http://www.flickr.com/photos/ohbatch/2894052579/">コアジ２匹</a>。友人曰く、普段はまさに「入れ食い」状態らしく、釣果のありがたみが薄れるほど、とのこと。<br />
初めての釣りだったので、今日ぐらい難しい方がかえって良かったかも知れない。<br />
釣りの後は、そのままバーベキュー場で釣った魚を<a href="http://www.flickr.com/photos/ohbatch/2894057021/in/photostream/">塩焼き</a>でいただく。苦労の甲斐あってか、コアジがひときわ旨い。<br />
スーパーで追加調達した「丸アジ切り身」や「<a href="http://www.nipponham.co.jp/products/sausage/arabiki_steak/index.html">グルメイドステーキ</a>」が、むちゃくちゃ旨くコアジの美味しさが後半忘れかけてきたのが少々無念。<br />
松方先生、私はまだ修行が足りないようです。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/09/post-120.html</link>
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            <pubDate>Sun, 28 Sep 2008 22:38:11 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ゾクゾク</title>
            <description><![CDATA[<p>久々に更新でナンなのだが、紹介しておきたい衝撃アイテムを２つ。</p>

<div class="amleter">
<img class="product" src="http://images-jp.amazon.com/images/P/B0012IWHNW.09._SCMZZZZZZZ__BO1,128,128,128__PB__PU4_.jpg" alt="Reality Check"/>
<p><strong>Reality Check</strong><br />
The Teenagers&nbsp;<br />
XL/Beggars Group<br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/Reality-Check-Teenagers/dp/B0012IWHNW%3FSubscriptionId%3D0R30C6DZWNK0T4CXBJG2%26tag%3Dohbatchnetblo-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0012IWHNW" target="_blank">Reality Check(Amazon.co.jp)</a></p>
</div>

<p>パリの３人組。8beatをひたすらダウンピッキングで刻むだけのクランチバッキング。マシンライクなドラムと、これまたシンプルなベースライン。ここにラップとは異なるただひたすら「しゃべっている」だけの感じのボーカルが乗ると、妙なリズムの揺れが感じられてきて最初は単調な印象があるのに、どことなく疾走感が生まれてくる感じ。シンセの白玉やキラキラもいい感じで絡む。ちょっと久々にゾクゾクした。</p>

<p><br />
<div class="amleter"><br />
<img class="product" src="http://images-jp.amazon.com/images/P/4873113644.09._SCMZZZZZZZ__BO1,128,128,128__PB__PU4_.jpg" alt="集合知プログラミング"/><br />
<p><strong>集合知プログラミング</strong><br /><br />
Toby Segaran&nbsp;&nbsp;<br /><br />
オライリージャパン<br /><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%9B%86%E5%90%88%E7%9F%A5%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0-Toby-Segaran/dp/4873113644%3FSubscriptionId%3D0R30C6DZWNK0T4CXBJG2%26tag%3Dohbatchnetblo-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4873113644" target="_blank">集合知プログラミング(Amazon.co.jp)</a></p><br />
</div></p>

<p>協調フィルタ、クラスタリング、模擬アニーリングに遺伝的アルゴリズム、ベイジアン分類にニューラルネット。私が大学生の時には、人工知能や学習アルゴリズムと呼ばれた一連のアルゴリズム達が、「WEB2.0を支える『集合知』アルゴリズム」として単純なデータベースアプリケーションの「一歩先」の世界へと誘ってくれる（実際にはインターネットの世界で一般的に広く用いられているアルゴリズムばかりである）。大学生の時と、大きく異なるのは、ウェブサイトはもちろん、そこでのユーザーの行動や趣向がインターネットの世界で多量に蓄積されている。さらにそこにアクセスできるAPIがオープンになっている今の時代には、これらの技術を適用するデータに事欠かない環境にあるということだ。冒頭の各種アルゴリズムを列挙するだけでもゾクゾクする、変態扱い覚悟であるが、遺伝的アルゴリズムとかは高校から大学にかけてホントに図書館に通い詰めて学んだんだもの。あの時の知的好奇心が、今になって甦るとは思ってもみなかった。</p>

<p>P.S. これを機に<a href="http://www.ohbatch.net/amleter/index.html">AMLETER</a>を修理。しばらく放置してたから全然動かないでやんの。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/09/post-119.html</link>
            <guid>http://www.ohbatch.net/2008/09/post-119.html</guid>
            
            
            <pubDate>Wed, 17 Sep 2008 00:26:30 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>リアクション</title>
            <description><![CDATA[<p>娘が一人で風呂に入るようになった。何でも一人でできるようになっては「もうお姉さんだなぁ」と褒めてもらうことを何よりも楽しい様子だ。</p>

<p>いつもより少々長い間風呂に入っているなぁ、と思っていたら、なんとまぁ彼女は血まみれで浴室から出てきた。そして、堰を切ったようにわんわんと泣き出す始末。</p>

<p>どうやら、浴室の一角にしまってあったカミソリを興味本位でイヂってしまったようだ。幸い、小指の先の皮を切ってしまったに過ぎない。風呂上がりで血行が促進（？）されている状態で、少々色の濃い血液がトクトクと小指から流れているが、10分程止血してやると、絆創膏で十分処置できる程までに血は止まった。</p>

<p>今まで、血が出て止まらないような大きなけがをしたことがなかった娘は、たいそう驚いた様子だ。両親に発見されてから一気に泣き出したことから、浴室で小指の止まらない血を見つめて過ごした時間は、本人にとって「この世の終わり」かと思えるような恐ろしい時間だったのかも知れない。</p>

<p>きっとこのテの体験は、大人になっても記憶に残りやすい類の、大げさに言えばトラウマと呼べるような体験になるのだろうか。</p>

<p>「さすがに止血した方が良さそう」だけれども、「大した傷でない」ことが把握できた時、私は第一声として、娘に何と声をかけようか迷った。うん結構迷った。</p>

<p></p>

<p>普段あまり耳にすることがないような泣き声をあげ、手首まで血が流れてきているその姿に、確かに私も最初は驚いた。浴室で親に見つかるまでの（おそらく）数分間に娘が感じたであろう恐怖は想像して余りある（きっと「これって死ぬんじゃないか」とパニックになったはずだ）。私自身に動揺がなかったと言えばウソになる。</p>

<p>ここで沸いた「迷い」は、きっと「このシチュエーションでのリアクションが、今後の娘の人生を大きく左右する」ような気が一瞬したからだろう。</p>

<p>「おまえはハモリパートか」と思えるような、普段より3音上げのトーンで「あららー、大変や大変や、よしよしもう大丈夫、怖かったなー」と騒ぐこともできた。しかし、そのリアクションは既に第一発見者の妻がとっている。</p>

<p>結局は、おそらく私の両親が言ったであろうように「あー大丈夫、大したことない」と動揺を隠して、あたかも全てお見通しだと言わんばかりの態度（これも私の両親がそうしたはずの態度）で接することとなった。</p>

<p>「迷う」とは言ったものの、それ自体は結果論であり、とっさのリアクションをそうそう計算するまでの余裕もなかった。</p>

<p><br />
子供が起こした何かしらの行動、特にその行動が強く自身の印象に残るようなものであった場合、それに対する親のリアクションは子供の人生にに大きな影響を与えるものだと思う。漠然と人生と表した中には、２つ、学びとしての側面と、性格や価値観としての側面を含めている。</p>

<p>親から一方的に「あれやれ、これやれ、あれやめ、これやめ」言うよりも、本人が起こしたアクションを受けてリアクションしてあげる方が、親からのメッセージは何倍も子供のハラに落ちるはずだ。<br />
いや、きっと子供に限った話じゃない。人は何かしらのリアクションを得ることで物事を学んでいくのだろう。頭の中（内面）で屈強の城を築くだけでもなく、外界から一方的に「指導」が注入されるだけでもない。学びとは、あくまでその起点は本人からのアクションであり、それに対する外的環境からのフィードバックによって初めて達成し得るものではないだろうか。という発見に近い仮説。</p>

<p>もう一つの発見は、自分で驚くほど、そのリアクションが自分の両親と似ていることだ（おそらく自分の子供を授かると誰しも感じることなのだろうと思う）。一瞬悩んだリアクションでさえ、いや、とっさに求められたリアクションだからこそ、自分の親が使うであろうフレーズを驚くほどそっくりに発することになる。また同時に、時としてそのリアクションによって子供が感じるであろう心情をも（かつての子供の自分がそうであったように）十分すぎるほど理解できたりするのである。</p>

<p>子供がある程度大きくなると、手がかからない分、感動や変化が薄くなりがちなのだが、大きくなったらなったで、これまた興味深い。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/08/post-118.html</link>
            <guid>http://www.ohbatch.net/2008/08/post-118.html</guid>
            
            
            <pubDate>Tue, 19 Aug 2008 23:38:12 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>空気を読むのは難しい</title>
            <description><![CDATA[<p>このあいだ、キャップ帽が欲しくて服飾店を物色していたときのこと。<br />
まるでメジャーリーグのチーム帽かと思うようなイニシャルをあしらったユニークなデザインのキャップ帽を見つけた。</p>

<p>「KY」</p>

<p>なるほど、空気読めってか。</p>

<p>ネタとしては微笑ましいのだが、これを被って街中を闊歩する姿は少々おぞましい。<br />
ノンバーバルとはいえ、そんなメッセージを街ん中で不特定多数へ発することのおぞましさ。これを発信することで、一体周囲にどんな配慮を要求（もしくは強要）してしまっているのだろうか。そう考えると、このワンシーンは軽くホラーに近い。</p>

<p>空気読め、なんて言葉が流行しているが。何とも考えさせられるものがある。これが「私の気持ちも察して」という意味であれば杞憂に過ぎない（その意味であったとしても、そんなことを言われるシーンにあまり遭遇したくないが）。「空気読め」には、どうも「マイノリティは黙ってろ」という含意が多少なりともある気がしてならない。つまり空気とは、当然「場の」空気のことを指しているからだ。</p>

<p>勤める会社でウナギの産地偽装を見つけて指摘した際、おエライさんが一言「おい、おまえ空気読め」なんて凄まれたら、替えのパンツは何枚あっても足らない。<br />
例えるなら、そんな怖さ。</p>

<p>個人主義だの、自己責任だの、多様な価値観を是とする思想などが押し寄せてくる中で、一見、古めかしくも日本らしい「右に倣え」という意味を含んだ言葉が流行することは、もしかすると、そうした圧力への反抗や、原点回帰への願望なのだろうか。と思うと深読みし過ぎかも知れない</p>

<p>ちなみに、考えてみるに、これに相反する流行語は「カラスの勝手でしょ」である。古い、しかし、我ながら深いわ！</p>

<p><br />
空気読めと発信できるということは、発信者自信が空気を読めていることを前提とし、また、その場において、既に暗黙のままに多数意見が形成されていることを前提とする。<br />
これは相当なリスクを抱えたままバクチを張ることになる。ヘタに仕掛けようものなら「お前が（空気を）読めや」と返り討ちにあうのだから。</p>

<p>あまり大した内容でなかったのだが、要は「空気を読む」のも難しいが、「空気読め」と言うのはもっと難しい。という話でした。ごきげんよう。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/07/post-117.html</link>
            <guid>http://www.ohbatch.net/2008/07/post-117.html</guid>
            
            
            <pubDate>Tue, 08 Jul 2008 00:47:36 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>サーバーが新しくなりました</title>
            <description><![CDATA[<p>創立記念日で会社がお休みなのを利用して自宅のサーバーを新しくした。</p>

<p>もともとは、Pentium3-500MhzのCPUで、メモリが192MBといういわゆる「10年選手」のマシンだったのだが（それでもブログがなんとか動いてのも驚きだ）、日本橋のパソコンショップでケースと光学ドライブだけ残して一新。サーバー機としての利用なので、高機能なグラフィックスやサウンド、光学ドライブが一切不要で、しかも既存のケースが再利用したかったので、リスクはあるものの、「パーツ単位」で揃えることに。</p>

<p>Celeron440-2.0GMzにVIA-chipsetP4M900、メモリ1GBを選びながらも、グラフィックカードもサウンドカードも追加せず。全部で2万円と少しで中身を総入れ替え。せっかくだから、とSATA対応のHDDを追加で購入したのだが、少なくとも現時点では既存のIDE接続のHDD-40GBをプライマリ利用してるので、最低構成なら、さらに\5,000円節約できたことになる。</p>

<p>早速、ブログの更新を試したところ、体感として４、５倍速い。\15,000で8～9年前の構成から、一気に去年レベルの構成まで引き上げられるのだから、自作機というのはコストが低い（サーバー機という特殊用途だから言えることで、クライアント機として「Vista利用」となれば数倍の値段がかかるのだろう）。<br />
それにしても良い買い物ができた。</p>

<p>本日のお買い物<br />
M/B:BIOSTAR P4M900-M7SE（microATX VIA-P4M900統合chipset）、CPU:Intel Celeron440（2.0GHz）、Mem:(Bulk)DDR2-5300 1GB、HDD:Hitachi HDP725025GLA38（250GB 7,200rpm SATA3Gbps）、Pow UNITCOM UN-400（ATX 400W）、上から\6,000 \5,000 \2,500 \5,000 \4,000。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/06/post-115.html</link>
            <guid>http://www.ohbatch.net/2008/06/post-115.html</guid>
            
            
            <pubDate>Tue, 17 Jun 2008 14:09:53 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>どうやって「やりたいこと」を見つけるか</title>
            <description><![CDATA[<p><a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post-116.html">前回</a>、<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post-113.html">前々回</a>から引き続いて、もう「そして伝説へ」と副題をつけたい衝動を抑えての３回目。<br />
どうやって「やりたいこと」を見つけるのか。</p>

<p>ストレートな模範解答を挙げるなら、好奇心をもって様々なことへトライすべし、となるのだろう。しかし、正解なのだろうがあまりに不親切だ。少なくとも私は、そんな表現では胆に落ちてこない。（そして「飛躍しすぎやしないか、前回までの２回の前振りは何だったのか」という話になる）</p>

<p>SNS内で友人、もしくは、見ず知らずの「友人の友人」からいただいたコメントにも（エントリを紹介いただいた「友人」に感謝を表します）、「興味」を引き金にして「やりたいこと」を手中に引き寄せる（あるいは偶発的に発生する）というお考えが比較的多かった。</p>

<p>理屈っぽく推し進めるなら、たとえ興味や趣向と呼ばれるものも、自らゼロベースで生み出すものではなく、また、全くの偶然で自然発生するものでもなく、両親などそれまでの人生で関わってきた人々を「真似て」いるだけに過ぎないという説もある。<br />
かといって、参照先の興味や趣向の起源を追い求めるとキリがない。はい、出ました「棚上げぇー（前に突き出した人差し指を左右に振る）」。興味の発生源は「わかんない」と、結論を保留にします。</p>

<p>就職活動の面接とかで「一番何かをやり遂げてうれしかったことは何ですか」という質問がある、というか表現はどうであれそのような「うれしかったこと」を問う趣旨の質問がある。今ここで振り返ってみると、その問い方に対し「うまいこと考えたな」と思える節がある。充実したと思えることでもなく、うまくできたことでもなく、もちろん、今まで一番褒めてもらったことといった稚拙な質問でもない。</p>

<p>前述の「やりたいこと」に包含された種々の意味的な要素が「うれしかったこと」を問うことで、暗黙であっても比較的効率良く引き出せる。つまり「やりたいこと」に対する結果として「うれしいこと」と表現することが、言い得て妙だと思うわけである。さらには、その回答は、複次元上に表現されたベクトルについて、各座標軸上の大きさへと分解できる。それぞれの大きさは、ベクトルを特徴付ける「重み」であり、そのことから、一般的に「価値観」と呼ばれているものを洞察することができる。「能力発揮要求５、承認欲求４、自己実現２」といった風に。</p>

<p>単純に「興味がある」という表現で身動きがとれなくなったものを、座標軸上へと分解する、もしくは、メタレベルへ汎化させることで、およそボンヤリと場所は見えてくるのではないだろうか。その「ぼんやり」のままだとしても、それをそのまま自分で「認知」さえできれば良いのだ。</p>

<p><br />
何にでも興味をもってみることから始める、のではあまりに無鉄砲じゃないか。探索対象の領域を絞り込んでみるのは真っ当な手段だ。キャンバスの上にリンゴの絵を描くのが難しいなら、明らかに背景や余白となる部分から塗りつぶしてみるだけでよい。リンゴの輪郭から描く必要はない。こんなのはリンゴじゃないと言う奴がいたら、リンゴではないが「リンゴの影」だと豪語してやればいい。</p>

<p>「自分探し」とは、海外の見知らぬ土地へ旅行して、自分をリセットすることなんかじゃ決してない。ストイックに内なる自分と対峙して、「興味」のその先に（その内に）あるものを、せめてその影だけでも見つけようとする姿勢であるべきだ。<br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/06/post-114.html</link>
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            <pubDate>Thu, 12 Jun 2008 00:15:14 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「やりたいこと」はどのように生まれるのか</title>
            <description><![CDATA[<p>前回のエントリ「<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post-113.html">『やりたいこと』を見つけ、それを仕事としなさい。</a>」で述べた高次元軸での評価基準の話は、全くのオリジナルではないのでご注意いただきたい。</p>

<p>「成長前夜／ショーンＫ 2005.2」の中でショーンＫが記した「人間の成長とは『やりたいこと（希望）』『やれること（能力）』『やるべきこと（責任）』のバランスを保ちながら、それぞれを頂点にする正三角形の面積を大きく広げていくプロセスだと思う」という、そのままの記述に学んだものだ。また「キャリアアンカー／エドガー・H. シャイン著 2003.6」の中でエドガーシャインが記す「自分は何が得意か？　自分は何をやりたいのか？　どのよなことをやっている自分なら、意味を感じて社会の役に立っていると実感できるか？」という３つの問いからヒントを得ている。</p>

<p>さて本題。<br />
妻と娘が「ゆうちゃん」と呼んで応援しているシンガーソングライターがいる。インディーズＣＤを買ってきては、６歳の娘が口ずさむほどに聴き込んでいる様子だ。どうやら、街頭で路上ライブを見かけて以来、すっかりファンになったようだ。<br />
昨日の食事の時にラジカセでそのＣＤをかけてくれたので拝聴する。偉そうな言い方だが、正直、何か今までにない特徴を持ち揃えた印象はなく、ごく「ありきたり」なアーティストに聴き受けられた。</p>

<p>６歳の娘にファンになった理由を問うてみると「かわいいから」とのこと。<br />
絶対違う。<br />
いや、別にかわいくないだろう、ということが述べたいのではなくて、一番最初に娘の心をフックして捕らえたのは「かわいさ」ではないはずだろう。</p>

<p>では何なのか。（もっと整理して考える必要はあるのだが）私が言えるのは、それは「自認」ではないだろうか。<br />
ある対象Ａに対して好きなところを述べる場合、ただ思うまま感性や直感に身を任せたままでも回答することができる。この場合、質問によっては「自分がＡを好きか」ということへの問いの回答を強制されることはない。<br />
しかし、「好きなものは何か」と聞かれて、先ほどの対象Ａを導き出すには、まず必ず「自分はＡが好きだ」という結論を自認することが不可欠となる。<br />
一方通行なこの２つの質疑を「可逆的」なものにするのが「自認」の意識である。</p>

<p>「やりたいこと」をスラスラと語るためには、そこに「これでやっていく」という一種の決意や覚悟であったり、「これが好きなのです」という外向きの宣言やアピールといった自認の要素が少なからず含まれてる。</p>

<p>「友人」や「知り合い」というレベルから、恋愛感情へ引き上げるための、初速としての駆動力となるのも「もしかしたら好きなのかも」という自認である。この時「好き」の理由を自分で理解することは非常に難しい。ただ何となく気になる、ただ何となく相手のことをもっと知りたい。そんな思いが内から発せられ、意識が吸い寄せられる。さらには、別段はっきりした理由なく一緒にいる中で相手の良さに気付き、好きに昇格することだってある。きっと、何かを好きになるというプロセスには、卵が先か鶏が先かという議論に陥るケースがある。<br />
要は、始めに理由ありきの好きと、結果的に理由が後付けされる好きとが、互いに併せ含むように形作られるのではないだろうか。</p>

<p>自認を伴わずに趣向が存在するケースもあるように見受けられる。その例外的ケースとは「一目惚れ」である。ところが、例えば、猫顔だから好きなのだ、離れ目だから好きなのだ、アヒル口だから好きなのだ、などといった理由が存在する場合であっても「自分がアヒル口を好む理由」は、きっと掘り起こすことが難しい。実は、根源的理由は保留されたままなのだ。</p>

<p>非合理だが、趣向が生じた本当の理由の特定を「一時的に棚上げした」状態で前へ進まない限り、趣向は生まれえない。きっとそうだ。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/06/post-116.html</link>
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            <pubDate>Sun, 08 Jun 2008 23:43:21 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「やりたいこと」を見つけ、それを仕事としなさい。</title>
            <description><![CDATA[<p>暑苦しい響きだ。ちょー暑苦しい響きだ。鳥肌が立つほど暑苦しいフレーズじゃないか。「好きなことを見つけなさい」だとか、「やりたいことをやってみなさい」とか、こんなアドバイスをよく目にする。ある意味このフレーズは、世間で一定のポジションを得た、一種の模範回答のように捉えられている。</p>

<p>しかし、実際には、友人で「やりたいこと」を言えそうな人間を思い起こそうにも浮かばない、極端な例だと、娯楽以外に「好きなこと」すら回答に詰まるのが本音ではないだろうか。 <br />
決して「私には、やりたいことがあります。そのために努力しています」なんて、さらに暑苦しい声をあげるつもりもない。熟慮なくそんな言葉を発そうものなら、しばらく梅雨に打たれてみろと言いたくなる。「やりたいことが見つかりません。何から始めてみればいいでしょうか」みたいな思春期のコのような悩みを打ち明けたいわけでもない。</p>

<p>よくよく考えてみると、何もない状態から「やりたいこと」なんて果たして見つけることなんてできるのか？<br />
若いうちから自分の「やりたいこと」を本質的に捉えることなんてできるわけがない。これは決して言い過ぎではないと私は思っている。無限に近い選択肢の中から、情報不足で評価基準も定かでない中で、好みに合ったものを見つけろとは、人間の能力を過信するにも程があるのではないだろうか。私たちを一体誰だと思っているのだ。</p>

<p>「やりたいこととは何か」<br />
ちょっと、そんな疑問を真ん中に据えてじっくり考えてみたい。あわよくば、どうやって見つけるべきものなのかを探ってみたい。深い心のダイビングの始まりだ。</p>

<p>「やりたい」と表現できるものの中には、純粋に「したい（want）」の他に、実は非常に多くの要素が内在している。しかし「やりたいこととは何？」と聞かれると「したい（want）」ばかりに囚われ盲目となっていないだろうか。単純な言葉で表現してしまうと、そこに内包した多くの意味が欠落し見落としてしまう。言葉で表現できるのは、全体のごく一部でしかないのだ。</p>

<p>少し話が逸れるが、先日友人が面白い話を聞かせてくれた。<br />
彼は「理想の結婚相手に巡り会うためには、一体何人の異性と知り合う必要があるのか」と問題提起したうえで、「もし、10人に１人の割合で自分の好みの容姿が存在すると仮定し、そのうえ性格が合うのは、さらに1/10と仮定する。おっと。まずそれ以前に知り合って、まず仲良くなるだけでもすげぇ確率低いんでね？...」と続く。</p>

<p>その場で私は「自分の好みなんて後で幾らでも変わっていくもんだわさ。どやさ、どやさ」とコメントしておいた。一瞬、「『出会い』を数値で考えるかフツー？」なんて感じなくはないが、ちょうど「好きな仕事って、はて何だろう」って漠然と思い耽っていた私には、彼の投げかけたボールがダブって見えた。「やりたい仕事は、一体どれほどの数の仕事を試してみれば見つかるのだろう」「『好き』が形作られる道のりに近道はあるのだろうか」と。</p>

<p>ここで、ゴールまでの道のりを大いに遠ざけているのが、言わば「『want』のみに頼ることによる制限」ではないだろうか。前述の話だと「結婚相手」を「好み」のみに縛っていることだ（決して「好み」でない異性と結婚すべきと言いたいのではない、うん、決して。）。複雑な問題を「単純モデル化」し過ぎたためにゴールを遠ざけてはいないだろうか。好きと一言で形容され集約されたとしても、本来その出発点には言葉では言い表せない様々な思いが原点にきっとある。</p>

<p>戻そう。「好きな仕事」でも同じことだと言える。「やりたい」と表現されるものには、「認められたいこと」「喜んでもらいたいこと」といったバリエーションの他にも、「できる（can）こと」とか「すべき（should）こと」とかも、過程が暗黙的であっても「したい」に行き着くことだってある。<br />
「したい／したくない」という一次元軸上を行ったり来たりするだけである必要はない。例えば「したい／したくない（興味）」「できる／できない（能力）」「すべき／やらなくともよい（貢献）」「褒められる／褒められない（承認）」という４次元軸上で、例え一軸において低い値を示しても、ベクトル長さ－距離－が遠い地点は、それはやはり「やりたい」と自認できるようなことなのだ。</p>

<p><br />
さすが数年に渡り悩み続けただけある。構想数年、構成2ヶ月、執筆30分という尻すぼみなエントリだが、実は書ききっていない続きがある。また<a href="http://www.ohbatch.net/2008/06/post-116.html">次回</a>お会いしましょう。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/06/post-113.html</link>
            <guid>http://www.ohbatch.net/2008/06/post-113.html</guid>
            
            
            <pubDate>Fri, 06 Jun 2008 23:59:59 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>想像力</title>
            <description><![CDATA[<p>12日に中国四川省で発生した地震は、死者が一万人を超える、と13日夜のニュースでは伝えられている。<br />
正直なところ、このご時世に1万人もの人間が一度に死ぬことがあるとは、いい表現じゃないが「驚いた」。いや、正確に言うと阪神大震災でも7000人くらいで、911での犠牲者は3000人くらいだったはずだから、「こんなことはもうない」と（何の根拠もなく）思い込んでいたと表現するのが合っているかも知れない。</p>

<p>難しいもので、数千万人や一万人が一度に死んだ、と言われても数字の大小はともかく、想像が沸きにくい。<br />
阪神大震災の場合でも、被害者数も分かる、社会インフラが破壊されてどれほど生活に苦労されたのかも、交通が分断されて多くの人が立ち往生を余儀なくされたのかも、家族の方がどんな風に家具に押しつぶされて亡くなったのかも、その後身寄りのないお年寄りが仮設住宅で孤独死されたのかも、全てニュースで伝えられる範囲では「理解」できている。<br />
しかし、7000人とそれを取り巻く多くの人々が感じた苦しさや悲しさをイメージしきれない自分は当時中学生だった。</p>

<p>これもニュースを見聞きする範囲だが、今回中国で起きた地震では学校の倒壊によって、教師や生徒の多くが現在もなお瓦礫の下に埋まっているという。瓦礫の下では、ありったけの恐怖と苦痛で描かれた地獄を、小学生くらいのその小さな身体に抱え込んで救助を待っているのかと思うと、月並みな表現だが心が痛む。</p>

<p>中学生の時の私と違い、結婚して子を持つようになった私には、親しき者を失う悲しみが理解できるようになった。もちろん当の本人からすれば「あなたに何が分かるのよ」という話なのだが、少なくとも以前よりは「想像」できるようになった。</p>

<p>「日本人の乗客はいませんでした、いませんでした」との歌じゃないが、最近のニュース、誰でもよかったとか、石油ストーブや車が火ぃ噴いちゃうとか、キレる十何歳とか、別の客の食べ残しまでリサイクルしちゃうとか、むしゃくしゃしていたとか、だいたいどれも「想像力が足りなかった」と言える気がしてならない。思いやりも愛も、言うなれば想像力なんだと思っている。</p>

<p>だからニュースで、瓦礫の下から救助を求める女性や、余震を恐れながら路上で家族と寄り添って眠る幼い子や、幸い生き延びたものの決死の覚悟で家財道具を掘り出す市民を見ながら、目を背けないで、できるところまで想像したい。想像して欲しい。<br />
この人たちはどんなに「悲しい」のだろうと。</p>

<p>その行為が「遺憾の意を表す」ことなのだと思う。</p>

<p>自分で書いていて、どっかで聞いたことあるなと思ったら、そういやジョンレノンが歌ってたわな「想像してごらん」って。あーぁ、なんだよパクリかよー。がっかりだぜー。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/05/post-112.html</link>
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            <pubDate>Wed, 14 May 2008 00:31:46 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>持ち家か賃貸か</title>
            <description><![CDATA[<p>賃貸で住んでいるマンションで大規模な工事が始まった。なんでもベランダの柵を一新するのだとか。数百戸もある「昭和」なマンションだから、足場を組むだけでも、もう数週間になる。足場が組まれたうちの南向きのベランダは、どうも薄暗くなりがちで、ピーカンお天気でも「どうも天気がすぐれない」と勘違いを何度か犯している。</p>

<p>ちなみに工事開始前には、ベランダ柵のデザイン案について住民による投票があった。うちは分譲賃貸だから、投票権は家主様にある。ただし、分譲賃貸だけれども、今年は各棟のフロアごとの班長の役回りが回ってきた(x_x)。</p>

<p>家の賃貸と購入にかかる比較についてのエントリを見つけ興味深く拝見（<a href="http://blog.gcd.org/archives/51168556.html">仙石浩明の日記: なぜ、「購入 VS 賃貸」 という比較がナンセンスなのか？</a>）。「夢のマイホーム」「一国一城の主」みたいな、知らぬ間に刷り込まれたバイアスに一旦蓋をして、金額ベースで比較しておられる。</p>

<blockquote>株に投資するなど夢にも思わないような堅実(?)な人が、何の疑問も抱かずにローンを組んでマンション等を買ってしまうのが不思議でならなかったのである（<a href="http://blog.gcd.org/archives/51168556.html">同ページより引用</a>）</blockquote>

<p>株はリスクがあると避けるのに、巨額なローンは「誰もが歩む道」とばかりに平気で負う人々へ抱いていた違和感を拝読しながら、「そうそう」と思い出す。</p>

<p>「同じ払うなら持ち家になる方が良くない？」とは購入派の主たる反応だ。「同じ払うなら」という前提が広い観点で金額的に納得できるならそうだろう。金額的な比較はトラバ先のエントリを参照されると良いだろう。</p>

<blockquote> (ローン金利と同率の) 3% の利回りが期待できると仮定してみる（<a href="http://blog.gcd.org/archives/51168556.html">同ページより引用</a>）</blockquote>

<p>ただ、地価上昇が見込めない点、貯蓄した場合の前提となる利率（いくら何でもローン金利と同じ3%とは、個人的には比較する上で高く見積もり過ぎな気がしないでもない）はエントリ筆者の主観でしかないので充分な注意が必要だ。また、算出に利用されている要素にも、考えようでいか様にもなってしまう部分があると感じるので、金額の大小は気にせず捉えたい。</p>

<p><br />
先が予測しきれないリスクというのは何も金額換算（さらには割引現在価値で比較）できるものに留まらない。購入した物件は、賃貸の物件と比べ移動が困難であることは想像に難くない（無理やり金額換算するならスイッチングコストとも呼ぶべきだろうか）。例えば、隣にどうにも怪しい住人が越してきたらどうだろう、もしくは急に親の介護が必要になり実家へ帰らざるを得ないとしたら。子供が執拗ないじめに遭い転校を余儀なくされたら。生活に必要なものが安く手に入る居住区だろうか、治安は安定しているのだろうか、地盤が緩いだの、河川が近いだの防災上の考慮はなされているのだろうか。住居を購入し定住することは、そんなリスクを一度は一手に引き受けることを意味するのだと考えている（もちろん防災などについては保険などでリスクを転嫁し、低減する手段はあるだろう）。反対に賃貸であっても、家主がトラブルメーカーだとか、うちみたいに風呂が壊れても修理までの手続きが煩雑になりがちだとか、壁に穴があけられないといった「持たない」がためのリスクやコストも当然存在する。</p>

<p>どっちが良いとか悪いとかという話ではない（私個人としては賃貸が楽だ）。ただ、人生で一番大きな買い物だ、「同じ払うなら、それが持ち家になる方が良くない？」どまりで思考停止せず、様々な角度から充分に考え抜く必要があると思うのだ。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/04/post-111.html</link>
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            <pubDate>Mon, 07 Apr 2008 23:01:23 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>パパスキル</title>
            <description><![CDATA[<p>子供がいると、父親としてあるフィールドでスキルを披露する場面に遭遇する。いや、この時代に「父親らしい」とか「母親らしい」といった「らしさ」のカテゴリ分けは、ナンセンスなのかも知れない。ただ、一部の女性が「バックでの片手ハンドル駐車」に男らしさを感じる（らしい）ように、特定の能力が父親らしいと思われるようなものもある。</p>

<p>例えばキャンプに行ったとしよう。火起し、タープの設置、ダイナミックなオトコの料理からロープの結び方まで、キャンプ場はパパスキルのサーカス場と呼ばれている。（しかし「キャンプに行こう」と話題に上ったとしても、「あぁサーカスね、サーカスに行くんだね」などと返事してはならない。キャンプでもサーカスでもなく「まず病院に行って来い」と罵声を浴びることになる。）</p>

<p>専ら「インドア」な私は、キャンプなどもっての他であり（火起しだけは得意だ）、発揮できる分野と言えばDIYぐらいかも知れない。しかも、賃貸でマンション暮らしなので、日曜大工と呼べるものには挑戦できない。せいぜい、ドライバーや六角レンチで自転車を修理するくらいだろうか。<br />
先日娘の自転車（コマなし問題で話題となった自転車だ）に駐車用の「両足スタンド」を設置する要望が持ち上がった。妻はてっきり「自転車屋で装着してもらうもの」と思い込んでいたらしいのだが、私が娘と向かった先はホームセンター。もちろん、両足スタンドだけ購入して、自分で装着するためだ。自転車の大きさ（16インチ）を入念に確認。購入予定の両足スタンドには「必要工具：15mmレンチ」とある。これも大丈夫。我が家には15mmのソケットレンチがある。</p>

<p>さていざ装着しようとして困難にぶち当たる。確かに最も外側を固定しているナットは15mmなのだが、さらに奥に、荷物乗せを挟み込むように17mmナットが固定されている。普通の自転車であれば、15mmナットを外すだけで装着できるようなのだが、なんせ幼児用自転車にディスクブレーキが付いているものだから、少々「特殊」な構造なのかも知れない。両足スタンドを取り付けるには、17mmナットがある箇所から取り外して、荷物乗せを合せて外側から一度に15mmナットで固定しなくてはならない。しかも、17mmナットはネジの随分奥に固定されているため、手持ちのソケットの深さでは、ネジが高くてナットまで届かないのだ。おいー、17mmの「ディープ」ソケットなんてないぜ。<br />
娘は怪訝そうな面持ちで「できた？」などと聞いてくる。<br />
妻は「初めから自転車屋に持っていけよ」と言いたそうだ、すごく言いたそうだ。<br />
少々特殊な造りになっている幼児用自転車にも関わらず、15mmレンチだけで完結すると両足スタンドに記載の説明を信じたばっかりに作業を中断せざるを得ない。「こら無理、観念した。行ってくる」そう聞いた妻の顔が呆れながらも、少し光が差したように見える。</p>

<p>「いや、自転車屋じゃない、ホームセンターや。17mmのディープソケットか、モンキーレンチのような汎用サイズのレンチを買ってくる！」妻の呆れ顔が級数的に加速する。バカだ、このダンナはバカだ。とまで言わんばかりの呆れ顔だ。やっとのことで発した言葉は力なく「いや、レンチじゃなくて」だってさ。いやしかし、こちらとしても引き下がる訳にいかない。</p>

<p>日暮れてやっと完成した<a href="http://www.flickr.com/photos/ohbatch/2334108689/">両足スタンド</a>。妻の目はいささか冷ややかだったが、レンチを回して自転車パーツを外して再度組み立てる時、娘の顔は「すげぇ」と言わんばかりに目を輝かせてくれるのだ。コンピュータをいくら巧みに操っても、娘が感心するのはあくまでコンピュータに対してなのだが、こうしてモノを作る作業をチラっとでも見せると子供心には響くのかも知れない。最近、男の子がなりたい職業に「大工」が結構長いことランクインしているのも、なんとなく分かるような気がしてきた。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/03/post-110.html</link>
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            <pubDate>Mon, 17 Mar 2008 23:25:10 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>右脳左脳とか文系理系とか</title>
            <description><![CDATA[<p>先日友人がおもしろいと紹介してくれた右脳と左脳のテスト（<a href="http://www.news.com.au/dailytelegraph/story/0,22049,22535838-5012895,00.html">The Right Brain vs Left Brain</a>）。</p>

<p>友人が紹介しておられた二次情報なうえに、紹介されてから随分日数が経っているため、一瞬投稿を迷ったのだが、私なりの主題をまとめるのに時間を要したとあらば許してもらえるだろうと勝手に解釈し、投稿することにする。<br />
壊滅的とも評すべき私の英語力が間違えてなければ、リンク先の絵が右回りに見える私は「比較的右脳を使っている」らしい（全く逆の意味で訳していないか非常に心配）。もちろん、右脳左脳は、それぞれが役割を持っていて両方が相互補完的に働くものだから、右脳人間だとか左脳人間だとかラベリングするつもりは毛頭ない。しかし、私自信「どっちかというと右脳チック」なキャラクターへの憧れに似た願望があったため、正直どことなくうれしい。「ほら、そら算数も理科もできんわさ」　まーなんてネガティブな嬉しさなのだろう。</p>

<p>右脳・左脳という構図と、（よく互いのテリトリ間で摩擦を目にする）文系・理系という構図は、私の中では非常に相通じる構図を持っている。一方が推進力を持つエンジンならば、もう一方は舵を取るハンドル。一方が目的地なら、もう一方は到達ルート。余計にわからなくなりそうだ。一方が「ビジョン」なら、他方はそれを体現する「道具」だと。えいもっと強引に言ってしまえば「目的」に対する「手段」という構図だ。</p>

<p>昔話になってしまうのだが、私が無理に無理をして高校で理系クラスを受講していたことを思い出す。ずっと算数数学、理科化学は大嫌いだった私が理系という道を（一瞬たりであろうとも）選らんだのは、それはただ私が大のMっ気の持ち主だったという理由だけに留まらない。それは、中学生の時にテレビで（確かNHK）見たルポだ。番組もそのテーマも忘れてしまったのだが、今でもひとつだけ覚えているのが、「これからの社会は理系のできる文系を必要としている」という結論だった。もちろん中学生の時分に、「自ら表出力を備えたビジョナリスト」という解釈ができた訳ではない。しかし、目的地を思い描くだけでは到達できないという片輪に属する危機感と、同時に、ちょうどその頃コンピュータを使い始め、これで飯を食うと誓ったばかりのだったのに、きっと「これだけでは飯は食えん」と、もう片輪に属する危機感を併せ呑むように感じ取った。　と今だから（大そうに美化して）思い返すことができる。</p>

<p>ある書籍で出会った「『良い』モノを作っていれば本当に『善い』のか」といった衝撃的な問題提起や、極端な実際の例だと「ここは絵じゃなくてFlashにしてください」なんて話や、「これが会社のビジョンです」なんて話も、計測可能で結果が分かりやすい「道具」にばかり意識が注がれているような気がして、なんだかなー、と思ってしまうのである。　過程も大事。と見せかけの優しさを見せておいて、結局そうは言っても最終的には結果が全て。なんて言われると参ってしまう。別に誰に言われたわけじゃないけど。</p>]]></description>
            <link>http://www.ohbatch.net/2008/03/post-109.html</link>
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            <pubDate>Mon, 10 Mar 2008 20:59:56 +0900</pubDate>
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    </channel>
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